2012年07月16日

ミスコンテストに初めての盲目の女性

久しぶりに、世の中には、ハンデをものともせずたくましく生きている人がいるんだなあと感動させられたニュース。五体不満足の乙武氏もですが、こんなに明るく前向きに成長するにはどんな親御さんに育てられたのかなあと、自省も重ねて考えてしまいました。
記事には写真もありますが、消える前に文章だけでもコピペして一人でも多くの人とシェアできたらと思います。

http://www.cnn.co.jp/usa/30007356.html?google_editors_picks=true

盲目女性がミスコンに初出場、最終選考まで勝ち抜く 米国
2012.07.16 Mon posted at: 11:34 JST
フロリダ州ハリウッド(CNN) 米フロリダ州のミスコンテストに初めて盲目の女性が出場し、最終選考に残った5人のうちの1人に選ばれた。惜しくも優勝は逃したが、勝つことは重視していなかったと明るい表情で語っている。
フロリダ州立大学1年生のコナー・ボスさん(18)は10年前、眼疾患のスターガルト病と診断され、周辺視野のみ残して徐々に視力が低下した。それでも優秀な成績で高校を卒業し、大学に進学。テストはすべて問題を音読してもらってこなし、高校時代は学級委員やチアリーディングチームのリーダーも務めた。
14日に開かれた大会では、ブロワード郡代表のミシェル・アギーレさんがミスフロリダの栄冠を手にした。しかしボスさんは大会前のインタビューで、「優勝にはこだわっていない」「私の話を知ってもらい、1人でも勇気付けることができれば、勝利したも同然」と語っていた。
選考会でも来年の目標について尋ねられ、「ほかの人たちを勇気付け、どんなことだってできると知ってもらいたい。その気になれば何だって達成できる。私の話を知って、自分たちの人生で実践してもらえればと思う」と話した。
ユーモアのセンスにもあふれ、目が見えないため物にぶつかったり、つまずいたりした経験も笑い話として紹介する。ミスコンの審査でも特別扱いはされなかったが、壇上ではつまずいたりしないよう、リハーサル中に立ち位置に到達するまでの歩数を数えて記憶するなど、五感を駆使して臨んだ。
大会プロデューサーのグラント・グラビット氏は「彼女がほかの女の子たちと違うのは、目が見えないからではない」「自分の人生の絶頂期に差し掛かっている素晴らしい女性だと思う」と称賛している。
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2010年08月07日

海江田万里さんの思い出

海江田氏、出馬の意向 民主代表選 小沢、鳩山氏側に伝える
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100807-00000078-san-pol
このニュースには驚きました。
「あの」海江田さんが…と感慨深い。知名度や民主党内部での政治力?からして首相の器なのかどうかはよくわかりませんが、もう還暦もすぎたのか、でもあのころとあまり変わらない若々しい印象だなあと30年も前の日々を思い出しています。
私の学生時代末期、当時付き合っていた(のちに結婚した)人から誘われて、一緒に夜間の中国語学校に通いました。水道橋の中国語研修学校といったでしょうか、古びた汚いビルの一室で、たしか、つぶれる寸前の数ヶ月だったと思います。あまりに昔のことで記憶もおぼろ。
そこにときどき顔を出していたのが、海江田万里さんです。
仕事が忙しい(たぶん)ためあまり出てこない割りに印象に残る人でした。カタカナで書いたようないかにも日本人的発音の中国語で、お世辞にもうまいとは言えませんでしたが(今はどうか知りませんが)、臆するところが全くなくとても明るく、よく笑う人でした。
授業が終わったあと飲みに行くこともありましたが、言い出すのはいつも海江田さんで、みんなで(と言っても数人)駅前の「養老の瀧」になだれこみました。
ほかの受講生のことは全く記憶になく、海江田さんが少しのお酒で真っ赤になった顔で、当時秘書をしていた参議院議員・野末 陳平さんのベストセラーの話題になると、「あれはボクが書いたんですけどね」と照れながら笑っていたのを覚えています。笑いの絶えない楽しい飲み会でした。
今還暦過ぎということなので当時は30歳前後、奥様はまだお勤め(富士銀行でしたか?)で子どもさんもないころだったと思います。
嫌味がなく陽気で如才なく、自分はあまり飲まない(飲めない)でまわりの人にすすめる気配りというかサービス精神にあふれ、政治家向きの人だと私は思いました。政治家の秘書をしているぐらいだからそのうちに出るのだろう…と予想していたので、のちに出馬したときはいよいよかと密かに応援していました。
顔もガタイもよくて陽気で有能、さぞかしもてるだろうなと思っていたので、写真週刊誌に何か書かれたときも当然のように思えました。
海江田さんを嫌う人はあまりいないでしょう。敵を作らないタイプだと思います。
一度ならず至近距離で飲んだこともある人が首相候補なんて、なんだか夢のようでワクワクしますが、まあ、まだちょっと時期尚早な気もします。


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2010年03月27日

次の主役

大相撲が始まった週に、90歳で一人暮らしの気丈な女性の家に行ったら、「朝青龍がいないとつまんないね」と口を尖らせて不満そう。これが相撲ファンの一般的な感想だろうと面白く思いました。
もう外出もままならない高齢者にとって、大相撲中継は家で楽しめる手軽な娯楽です。
ごひいきの力士を聞いたら、「稀勢の里がいいけど、今は強いのは外国人ばっかりでダメね」。ホントにそうですよねと盛り上がりました。
大正生まれの人にとって今の角界は信じられない嘆かわしい状況かもしれません。朝青龍に対しても(ファンではなく)敵役としていてほしかっただけだと思います。
貴乃花が現役のときは「主人と夢中になって応援していた」そうです。ご主人が存命中は二人でワイワイ楽しんだのでしょうから、その点はちょっと気の毒。

それにしても今場所は、朝青龍の穴を十分に埋めるような把瑠都の大活躍。大関当確とも言われますが、いずれ横綱も時間の問題という印象。膝の怪我や技術不足で出遅れましたが、素質は十分。次の主役はこの人だろうと思います。
身長198cm・体重188kg、握力は右85kg・左93kgで、リンゴを軽く握りつぶせる怪力の持ち主。
バルト海近くのエストニア出身、柔道で国内優勝の経歴もあるようです。
女手ひとつで3人の兄弟を育ててくれた母親を<幸せにしてあげたくて>日本に来たそうで、こういうハングリー精神を持っている力士は強いと思います。

茶目っ気のある陽気な性格でかつ礼儀正しく、周囲との人間関係も良好。2009年に2歳年上のロシア人女性と結婚しているそうです。
先に大関になった琴欧州とはまた違った顔立ちで、「角界のディカプリオ」の異名も。やせていた昔はレオ様によく似ていたそうです。
白人らしい肌は見てのとおりですが、髪も細いブロンドのため、鬢付け油に着色して黒く染めているそうです。
2004年当時、161kgと今よりだいぶやせていて、髪もブロンドのままの写真がこちらにありました。
http://news.livedoor.com/article/detail/1280873/

外国人であることはあのおばあちゃまには不満かもしれないけど、誰にでも好かれそうな把瑠都関。慣れない異国でけいこに励み、日本語も必死に勉強して(まだちょっと怪しいところもあるけど)会話もスムーズ。
先日のインタビューで「…楽しみにしています」とレポーターに言われた時「私も楽しみです」と答えたあとあわてたように「頑張ります」と言い直した時には、外国人だなとちょっと可笑しかった(可愛かった)です。
つられて言ったような感じでしたが、日本人の感覚ではふざけたようにとられるかもしれません。そういうプレッシャーも含めて苦労してるなあと思いました。

きょう中継をラジオで聞いていたら、朝赤龍が変化してはたく(相手が手をつく)勝ち方をしたようで、解説の親方が「こんなラクな勝ち方を覚えたら上には行けない」と苦言を呈していました。それはそうでしょう、うまくいったときはいいけどクセになって墓穴を掘ります。厳しい世界ですね。
ぶつかり合う力相撲なら身体の大きい力士が有利なのは言うまでもありませんが、大きければ必ず勝てるものでもないのも相撲の醍醐味。把瑠都関には正攻法で頑張ってほしいものです。

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2010年03月25日

ソフィア・ローレン

映画の好みは人それぞれだから、「NINE」のワルクチを言うのは自粛するとして…。
ソフィア・ローレンの若々しさには驚きました。1934年9月の生まれですから、現在75歳の計算になりますが、このとおりの輝き。
http://www.cinematoday.jp/movie/gallery/T0007925/009
こういうセピア色の画面が多くて(主人公の亡き母親で、妄想の中にだけ出てくる役です)毛穴までくっきり、というのはなかったですが、大写しになるシーンはあって、
「シワが全然ない、胸はシリコンだろうけど、いったい(美容成形か整形かに)いくらかけたんだろう…。きれいにしておくのも仕事のうちとは言え、さすがプロは違う…」
と文句なしに脱帽した私です。(二の腕のたるみがちょっとだけ見えました)
こちらに若いときの写真がありますが、
http://www.f-actress.com/so/SophiaLoren.html
意志の強そうな顔は今もそのまま、強く印象に残ります。女優としては何にも勝る武器かもしれません。

私が子どもの頃コマーシャルの撮影のためか来日し、朝のテレビでインタビューを受けていたことがありました。そのときの強烈な印象は今も忘れられません。
口の大きな人ですが、それを強調するかのようなルージュをひき、目には歌舞伎の目張りを思わせるメイク。私の目にはその美しさは全く理解できず、落ち着いて自信に満ちた物腰に違和感すら覚えたものでした。
そのときの印象が180°覆ったのが、のちに「ひまわり」を見たときです。戦争で行方不明になった夫をようやく探し当てたら、命の恩人と新しい家庭を持っていた…。静かに反戦を訴える秀作で、彼女はひたむきに夫を探すけなげな妻を演じていました。
当たり前の話だけど、「この人も泣くんだ…」となんだか意外な気がしました。
切ない音楽と彼女の泣きだしそうな顔、一面のひまわり畑はこちらのサイトで。
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/I%20Girasoli.htm

ローマで庶子として生まれ、貧困のうちに育ったそうです。彼女を見出してくれた映画監督と長い間不倫関係を続けて、息子を二人産み、20年ばかりのちにやっと正式に結婚しました(現在は死別)。意志の強さは外見だけではなさそうです。

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2010年03月19日

ブレイクの予感

仕事の合間だったか、たまたま昼間家に居た時間にテレビでこの人を見ました。
アラン・ランバート。インタビューでは物静かでシャイな印象でしたが、披露した歌はけばいメイクに妖艶なバックダンサーつき。アメリカっぽいギトギトと言うかヘビーと言うか…。エルビス・プレスリーの再来とかいうふれこみで日本デビューしたようです。
テレビで見た横顔はゴルフの石川遼選手に似たさわやか系でしたが、本人もカミングアウトした同性愛者だそうで、そのせいかこんな感じで売っているようです。
https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_b7c/aa-taro/normal_286tkdu.jpg
もちろんキワモノというわけではなく、歌唱力は確かでクイーンに誘われたという話もあります。10歳ごろから子役として舞台に立ってもいるそうです。
こちらにはあまりきわどくない画像も載っています。若く見えますがもう28歳。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88
それにしても久しぶりに「この人はブレイクする!」と私は確信しましたが、さて、どうでしょうか。


20日追記:
アップしたあと夕刊を見たら、この人が大きく紹介されていました。写真が馬鹿でかかったのですが、この人の魅力は引き出されていなかったように思います。売れるためには何より差別化ですから、きわどいところを狙うのも必要なのかもしれませんが、ちょっと残念。
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2009年05月07日

Dream came  True

みなさんはもうご覧になりましたか、47歳の歌姫スーザン・ボイル。
ネットやワイドショー、NHKのニュースでも紹介されていましたが、それはほんのさわりだけ。いったいどんな歌だったのかとネットで検索して、You Tubeで映像を見ました。
http://www.youtube.com/watch?v=1t8m7CkpIK0&NR=1
…とーっても感銘を受けました。お気に入りに登録して毎日のように再生して、その都度元気をもらっています。

12歳のころから歌っていて、22歳のときイベントで歌った映像もどこかにあるそうです。
本人はおとなしいシャイな婦人ながら、歌手になる夢はずっと持ち続けていたようですね。
でもイギリスの片田舎に住んでいて、結婚どころかキスもしたことがない。同居しているのはネコ。
この10年は母親の介護をしていたとかで、夢を追うチャンスもなかったようです。
母親が亡くなるときに背中を押してくれたのがきっかけで、このオーディション番組(予選)に出て、一躍世界的有名人になりました。47歳の一発勝負で夢をかなえた人として、長く記憶されることでしょう。
今まで不本意な人生だったでしょう。これからうんと長生きして歌い続け、取り返してほしいものだと思っています。

そして私も、トシだからと諦めたり言い訳して開き直ったりせずに、元気に頑張ろうと思います。
ヘルパーの仕事は順調で、だいぶ慣れて来ました。幸い私を待って下さっている利用者さんもあり、やりがいがあります。
さらに、勧めてくれる人があって、遠のいていた小説に久しぶりにチャレンジし、小さな賞に応募することにしました。
ぼちぼちと、好きなことをやって人生楽しみたいと思います。
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2008年08月02日

老いたリズ

アップの写真を見て「腐っても鯛…」とうなってしまったのはあまりにも失礼かしら。「沈丁花は枯れてもかんばし」ということわざもあるそうで、こっちがふさわしいかも。
若い頃は、「世界一美しい女性」と形容されたエリザベス・テイラー、オン歳76歳になるそうです。美人はうまく歳を取るものだと見とれてしまいました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080801-00000063-jij-ent.view-000
私はモンゴメリー・クリフトと共演した「陽の当たる場所」をビデオで見て、「完璧な美しさだな〜」とため息がもれたものでした。モンゴメリー・クリフトは彼女の美しさに心を奪われて苦しんだという話もあります。

リズはかつて激太りが話題になりましたがその影響か、現在も糖尿病や心臓疾患を抱えているそうです。それにしても、太っているときでもさすがに綺麗な人だと思います。
http://cinematoday.jp/image/N0009130_l
そりゃー綺麗にしておくのもこういう人たちにとっては仕事の一部。選りすぐったプロのスタッフがカネには糸目をつけないケアをしているんでしょうけどね。

彼女の写真がネットに出たのは、危篤説が流れたから。
http://cinematoday.jp/page/N0014727
エリザベス・テイラー、心不全で重体…一時は延命機器も
[シネマトゥデイ映画ニュース] 7月15日に肺炎を起こして病院へ運ばれたエリザベス・テイラーが、心不全となり一時延命機器を取り付けられるほどの重体になった。
 ナショナル・エンクワイアー誌によると、テイラーの子どもたちがベッドの脇に付き添い、医師から「助からないかもしれない」と告げられたそうだ。しかし翌日、病状は改善し、現在も深刻な状態ながら峠は越したようだ。テイラーは糖尿病や肺炎を患っており、1997年には脳腫瘍の摘出手術も受けている。最近では体の調子はよく、2006年にはテレビ番組の中で「アルツハイマーを患っている」といううわさをはっきり否定するなど、健康をアピールしていた。


その後のニュースでは、深刻な病状であることは否定されているようです。
いずれにしろ入院して治療を受けているのは事実なので、退院して記者会見でも開き元気な姿を披露しない限りは、重病説が流れるのも仕方のないところでしょうか。有名人、人気者は辛いですね。

リズはリチャード・バートンとの2回を含め、計8回の結婚をしています。死別が一回で、離婚が7回。
これほどの美人(で有名女優)となると男の方もほっておかないのか、不倫からお互いの離婚を待っての結婚に至ったことも何度もあるようです。そんなスキャンダルにもつぶされなかったのは、本人の実力以上に、本能のまま生きることに寛大な国民性もあるでしょうか。
私は今回初めて知りましたが、彼女は4人も子どもを生んでいるんですね。孫も9人いるそうです。
エイズ撲滅運動に熱心で、91年にはエリザベス・テイラー・エイズ財団も設立。自分の所有物は将来クリスティーズで競売にかけ、売上を財団に寄付することにしているそうです。
やりたいことはやって、ちゃんと社会にも還元している。羨ましい生き方に思えます。
元気に退院して、朋友のマイケル・ジャクソンを喜ばせてほしいものです。

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2008年06月11日

水野晴郎さんの人生

映画評論家の水野晴郎さんが亡くなりました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080611-00000010-eiga-movi
「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」の映画評論家・水野晴郎氏が死去!

[eiga.com 映画ニュース] 1972年から「水曜ロードショー」(のちに「金曜ロードショー」)の映画解説を務め、「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」という名文句を生んだ映画評論家・水野晴郎(本名・水野和夫)氏が6月10日に亡くなった。76歳だった。
 1956年に20世紀フォックス映画に入社し、映画界入り。その5年後、日本ユナイト映画に移籍して宣伝総支配人を務め、「真夜中のカーボーイ」や「007/危機一発」(現タイトル「007/ロシアより愛をこめて」)など意図的に誤字を使った邦題でヒットに結びつけたのは有名な話。
 独立後、映画評論家になると、39歳から故・淀川長治氏や故・荻昌弘氏にならって、TVの映画解説を担当。コメントの最後に「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」と語り、お茶の間の人気を集めた。
 警察に関する豊富な知識やコレクションでも知られ、晩年はマイク水野名義で映画監督にも進出。幼少時代に過ごした満州での体験をベースに、「シベリア超特急」シリーズを手がけた。近年は体調不良により、入退院を繰り返していた。


水野晴郎さんというと私には、丸っこい笑顔から福耳が突き出しているイメージがあります。死因は肝不全と発表されたようですが、肝臓が悪かったのでしょうか。
骨粗しょう症もあって、階段を踏み外して転倒、背骨を骨折したことも二回あったそうです。
いつも陽気に笑っている人という印象でしたが、経歴を見て驚きました、すごい苦労人。
2歳で旧満州に渡り、終戦で引き揚げてまもなく両親を亡くした。郵便局や本屋に勤め、夜は定時制高校に通いながら幼かった弟妹4人の面倒を見たそうです。
56年に上京して大好きな映画関係の仕事をしながら、9年がかりの通信教育で慶応大学国文科を卒業したということです。
郵便局員の経験から紙幣さばきの名人だったそうですし、何事にも勤勉に取り組む誠実さが伺われます。

もちろんすべて順風満帆だったわけではなく、83年6月の参院選に出馬して落選という挫折もありました。でも念願だった映画監督も務め、さんざんに言われながらも「シベ超」の愛称でシリーズ化。
05年8月には石川県のローカル線「のと鉄道」に「シベリア超特急号」を走らせて監督も乗車。長年の夢が叶って喜んでいたそうです。
逆境に置かれてもひねくれず、こつこつ努力して好きな道を究めたその生き方には、大いに学びたいと思います。

温厚そうな風貌とは裏腹に、警察マニアとしても知られていました。本物の保安官の格好(バッジもホンモノ)でテレビに出ていたこともあります(体験勤務をした)し、その際は本人もとても嬉しそうでした。警察グッズの収集家としても有名でした。
米国警察や司法制度に詳しく、かつては警察学校で本格的な講義を受け持ち、日本各地の警察、警察大学校、警察学校で講演していたそうです。
日本のパトカーにアメリカ式のパトライトを採用するよう提案したのもこの人。小さなライトから車幅いっぱいの大きなライトに替わったのは私も覚えていますが、この人が、知り合いだった警視庁のトップに提案して採用させたとは知りませんでした。

水野晴郎さんの口ぐせを知る人には懐かしい。水野節に変換できるサイト
(ハルオホン)http://www.mizunoharuo.com/f_set.html
があったので遊んでみました。そうそう、いかにも言いそう!と笑えます。

<きょう、自閉症の息子をグループホーム世界中のさまざまなケアホーム、シベリア超特急5では世界初の万里の長城での階段落ちをやってるわけです、に入れている先輩お母さんから、ちょっとした問い合わせの電話があり、久しぶりにお話しましたんだなぁ、もうたっぷりと、いやぁ、ご機嫌いかがですか、水野晴郎です。
この豪華絢爛のエンタテイメントお母さん、そのメタメタな年代としては珍しい、システムエンジニアをしていたとかのバリバリのキャリアウーマンあがり、といった印象の有能なヒッチコックです。自閉症児、よろしくどーぞ、シベリア超特急5、者親の会の名簿をシベリア超特急5に打ち込んで、無線をボンボン鳴らして、必要に応じてデータをさっと取り出せるように、膨大な仕事をボランティアでしてくれたりしましたんだなぁ、もうたっぷりとするわけです。
私も一緒に活動していたころは元気で、まだまだ現役という感じでしたがやっぱりしかし、どんどんどんどん、お互いに歳を取りましたんだなぁ、そしていよいよ、2005年2月11日に新宿ピカデリーでシベリア超特急5がいよいよ公開されるんだなぁ、いやぁほんとに嬉しい限りです。もう老後を通り越しましてね、自分の亡き後の心配が切実な様子です。>
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2007年12月04日

桂銀淑ふたたび!

きょう紅白歌合戦の出場者が発表になりました。
「紅白はもうやめたら」と年頭に書いた私ですが、誰が選ばれたのかと人並みに興味は覚えます。
名前一覧を見て思ったのは、今は覚せい剤や大麻で逮捕歴のある歌手でも、復活出来る時代だなってこと。槇原敬之も出るらしいし、国民的人気のある美川憲一は今やNHK御用達という感じですよね。
今年は出ないみたいだけど、長淵剛、研ナオコにも大麻で逮捕された前歴がありますね。ドリカム、サザンの元メンバーにもいます。
「失恋レストラン」で一世を風靡した清水健太郎(もちろん紅白にも出ました)は覚せい剤中毒で4回も逮捕されました。服役したあとは引き受けるところもないようですね。

薬物中毒から抜け出せなくて人生をふいにしてしまう人もいるけど、見事復活を果たした人もいる。この人には是非、後者の仲間入りしてほしいと思うのは、桂銀淑です。
11月26日、覚せい剤取締法違反(所持)で関東信越厚生局麻薬取締部に現行犯逮捕されてしまいました。
覚せい剤と共に吸引用のガラス製パイプ2個も押収され、「自分で使うつもりだった。すみませんでした」と謝ったそうですから、常習者なのでしょうか。
桂銀淑(ケー・ウンスク)は韓国出身の演歌歌手。紅白歌合戦には1988年から1994年まで7年連続出場しています。

浜圭介に師事して、「北空港」ではデュエットしています。これはカラオケで今でもとても人気のある曲だそうです。
彼女の絶頂期には私はあまり関心がなかったのですが、10年ばかり前、カラオケで「すずめの涙」を聞かせてくれた人がいて、彼女のテープも貸してくれました。
往年の青江美奈や、森進一を連想するハスキーな声ながら、よく伸びる豊かな声量の、不思議な魅力のある歌声です。玄人好みと形容する人がいますが、そんな感じかもしれません。
すっかり気に入って、連日車の中で聞いていました。

最近はあまり見ないけどどうしているのかと思っていた時に、アルコールでダメになったと聞きました。アル中から覚せい剤に拡がったのかもしれません。
逮捕されて監視されれば覚せい剤を続けることも出来ないでしょうから、これを期にすっぱりと薬物から手を切り、荒れたであろうのどを取り戻して、またあの切ない歌声を聴かせてほしいと思います。
中毒から抜け出した経験を語って、本の一冊も出したらどうでしょう。
そして、また紅白に華々しく復活してくれたらいいなと思っています。
(敬称略)
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2007年11月26日

ベッカムに同情

人気者は辛いね、と深く同情したくなるニュースです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071126-00000429-reu-spo
11月25日、親善試合のためオーストラリア入りした米MLSギャラクシー所属のベッカム選手が、滞在先のホテルで待っていた小児がん生存者の子供たちを無視したとして非難を受けた、そうです。

ロンドンから自家用機で22時間かけてシドニーへ。警察の護衛つきでホテルに到着しました。
そのホテルの外では、小児ガンを克服した子どもたちが、歓迎のために待っていたそうです。カンガルーのおもちゃ(ぬいぐるみ?)を渡したかったらしい。
外は暗く、護衛に囲まれたベッカムには子どもたちの姿が目に入らなかったか、入ったとしてもなぜそこにいるのかわからなかったに違いありません。
さっさとホテルに入った、そのどこが非難に値するのか、全く理解に苦しみます。
ベッカムの話題というだけで耳目をひく、という計算なのか、いつもながらマスコミには意地の悪い見方しかしてもらえないのか、個人的にはとても気の毒だと同情しています。

前の日のニュース。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071125-00000094-ism-spo
「今まで一度もオーストラリアに来たことがなかったし、長年訪れたいと思っていた国だから、来れてうれしいよ」と記者会見でコメントした。実に22時間をかけての飛行となったが、「それ以上の価値があると思う」と語っていた。
いいヒトじゃないですか、ベッカムって。なんの文句があるんだろう。

警察に護衛されて移動するようなVIPにサプライズで会おうというのは、いくら難病を克服した子どもたちだからって、迷惑じゃないでしょうか。
そういう子どもたちだから当然だ、というのは逆差別では。
もしベッカムが子どもたちに気がついていたとしても、護衛としては、差し出されたぬいぐるみに爆薬が仕掛けられてないか、チェックする義務があるんじゃないかと思います。
無視した、冷たいと無責任に批判する(批判があると報道する)マスコミって、バカじゃないのと言いたいです。
あとで場所と時間を設定してもらいさえすれば、子どもたちはベッカムに会えると思います。

昨年このブログでも書きましたが、
http://dashisroom.seesaa.net/article/22312787.html
ベッカムはユニセフなどボランティア活動に実績のある人だし、OCD(Obsessive Compulsive Disorder 強迫性障害)に悩んでもいます。それなりの評価や理解・配慮を受けて当然ではないでしょうか。
やっかまれるのは人気者の宿命とはいえ、あまりに気の毒で、ひとこと言いたくなりました。
posted by dashi at 23:22| Comment(2) | TrackBack(0) | 気になる人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月22日

二人のダイスケ

(私から見たら)若いけど、大人だなあ…とうなった二人。

レッドソックス、松坂大輔。
すごいですね、考えられないくらいのプレッシャーの中で、最高の投球が出来る。
インタビューも調子に乗ることなく、先を冷静に見ていますよね。愛嬌のある童顔だけど、大人だなあ…と思います。
横浜高校で全国制覇したときもそうだったけど、どんな状況でも落ち着いてベストを尽くせる人ですね。
プレッシャーに押しつぶされないのは、社会的評価に負けないだけの実力という裏打ちがあるから。
(実力もないのにパフォーマンスだけで墓穴を掘った、どこかの坊やに見習ってほしいです)
他人の評価にぶれない、しっかりした軸足があるんでしょうね。
西武に入団してさほどたたないうちにゴシップがあったけど(密会での交通違反を肩代わりしようとしたのが、スケートの黒岩選手だったのには驚きました)、いったんは別れさせられたと思われた年上の相手と円満に結婚した。信念を曲げない、まっすぐな人なのでしょうね。

もう一人は、坊やに挑発されても涼しい顔で受け流していた内藤大助。
こちらは最年長防衛記録を作ったそうで、オン年33歳だそうですから、まあ立派なオトナではありますね。
試合直後の、反則の攻撃をされたせいで目の周囲がひどく腫れた状態でも、感情的なコメントは一切口にしなかったですね。
ゆっくり休みたかったでしょうに、嫌な顔はしないでずっと表に出て(世間につきあって)いました。
連日テレビに引っ張り出されていたので、私としては「はあ、腫れってだんだんひいていくもんなんだなあ」と、三角形だった目が丸くなり、優しく垂れていくのを興味深く見ていました。
悪質な反則してきた相手を「自分は18のときはもっとガキだった」とか「才能があるからがんばってほしい」など、かばうような発言も印象に残ります。

謝罪に来たときのことも「済んだこと」と語らないなど、内心は知る由もありませんが、オトナの言動です。
「先生」に推薦されるようですが、適任だと思います。
http://www.nikkansports.com/battle/kameda/p-bt-tp1-20071019-271717.html
チャンピオン内藤が「先生」になる?!

 チャンピオン内藤が「先生」になるかもしれない。日本サッカー協会は18日までに、WBC世界フライ級王者内藤大助(33=宮田)に同協会が今春スタートした「JFAこころのプロジェクト」の講師役(夢先生)をオファーする意向を固めた。同プロジェクトは小学5、6年生を対象に夢に向かって努力することの大切さなどを伝えるもので、今月からサッカー界以外の夢先生も招いている。同協会の川淵キャプテンは「ぜひ、お願いしたい」と挫折や苦労を乗り越え夢を実現した王者の登場を熱望した。


世のいい子は、ぜひこの二人のダイスケさんをお手本にしてください。
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2007年09月29日

米良美一さんの印象

何年か前のこと、「もののけ姫」のカウンターティナーとして一躍その名を知られた米良美一さんが、ウチの息子の通う養護学校でコンサートを開いたことがありました。
正直なところ、こんな小さな会場(狭い体育館です)の粗末な舞台で、ほんとにやってくれるのかしらと半信半疑でした。
「ゲイのデリヘルを殴打」という衝撃的な事件のあと、マスコミにもほとんど登場していなかったころのことです。
ゴシップで干されて仕事を選べないから、こんな地味〜なコンサート(半分以上はボランティア?)を引き受けたのかと思っていました。

歌が始まって驚きました。まるで声が出ていないのです。
あんな狭い会場なら、紅白の会場でノーマイクで歌った和田アキ子ほどの声量は要らないはず。本人もそのつもりだったと思います。
プロの歌とは思えませんでした。イタリア語も交えて本格的な(クラシックのプロっぽい)曲を歌っているのですが、歌っている本人も思うような声が出ないことに苛立ち焦っているのが客席からもよくわかりました。
途中で、観念したようにマイクを持ちました。マイクの助けを借りたらあの美声も復活して、ああ、やっぱりホンモノだったのだと思いました。
おそらく本人にとっても、かなり不本意な出来のコンサートだったに違いありません。
(あとで、5年ほど声の出ない時期があって苦しんでいたと聞いたので、あれはちょうどその頃だったのだろうと思いました)

コンサートが終わって、客席の真ん中の通路を退場する米良さんを、至近距離で見ました。
とても小柄なのにはびっくりしました。相対的に頭の大きい、幼児のような体型です。
私の隣に座っていた女性(保護者)は、立ち上がって握手をしてもらいました。その人は平均的な身長の人ですが、米良さんは彼女よりずっと小さい。
その人は「ちっちゃい手! 私の手にすっぽり、よ。カワイイ!」と興奮していました。
米良さんは公称150cmらしいですが、私の見るところではそんなになくて、せいぜい140cm台後半というところだと思います。
小柄で華奢で、肌も色が白くすべすべしていて(さわったわけじゃないですが)、子どもの皮膚みたいでした。
例のゴシップでゲイであることを暴露された形になりましたが、率直に言って、あの身体で男として生きていくのはしんどいかもしれないと思います。

その後朝日新聞やネットの情報などで、米良さんは原因不明の難病「先天性骨形成不全症」のために、青春時代の大部分を病院のベッドで過ごしたと知りました。全寮制の養護学校で学んだ時期もあるようです。
養護学校の体育館なんかで…と恐縮する気持ちのあった私ですが、養護学校は米良さんにとって身近な場所であったわけですね。
私は今までに、骨形成不全症で寝たきり、という例は聞いたことがありました。すぐ骨が折れてしまうのだから痛そうだし、うっかり身体に触れられないようなイメージがありました。
声帯や腹筋(プロの発声)に影響が残らず、完治して普通に生活できるようになる病気とは知らなかったので、米良さんがそうだったと知ってとても意外でした。
同じような病気で悩んでいる人や周囲にとって、病気を克服した彼の活躍は、とても勇気付けられるものではないかと思います。

また病気ばかりでなく、貧しい生い立ちであることにも驚きました。
病気の治療費も、母親までが日雇い労働をして稼いでくれたそうです。「ヨイトマケの唄」そのものの世界だという話。
洗足学園音大を首席で卒業したという経歴からは、いいとこのボンボンという印象を受けます。学校の支払い以外にも個人レッスンの費用とかかかっただろうに、余計なお世話だけど、どうやって工面したんだろう? なんて考えてしまいました。
小さい華奢な身体からは想像できない、強い意志と根性のある人なのでしょうね。
長いスランプを脱して、自ら生い立ちを記した自叙伝も出した。育った家庭や病気のこともタブーではなくなって、ご両親は喜んでいらっしゃるでしょう。

恋愛に関しては、インタビューでこのように答えています。
http://www.zakzak.co.jp/hitorigoto/20051022.html
好みは、一言でいうと美しい人。ゲイってことよりも、美しいものに手を出したい。美意識が高いんです。

 この夏、スペイン、ドイツの音楽祭に参加して高い評価をいただきましたが、ヨーロッパで生活するうちに、彼らは男とか女とか関係ないってことが分かりました。アーティストであるほど中性的で神みたいになっていく。求めるのは、肉じゃなくて中身、ソウルなんですよ。

 今は、自分のために歌っているし、一人でいることが幸せに感じる。背負っているものを他人で埋めようとはしません。
 恋愛相手も一生現れないかもしれないけど、自分の中にある新しい感覚、それが咲き始めた花みたいに思えます。
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2007年08月28日

ブラピ小ネタ

ブラッド・ピットが21日、2年前にハリケーン「カトリーナ」で大被害を受けたニューオーリンズを訪問。
同地にタウンハウスを所有しているブラピは、環境に優しい復興作業の支援を表明したそうです。
http://news.livedoor.com/article/detail/3284130/
「ブラッドが訪れたのは環境保護団体グローバル・グリーンUSAが建設した下9区の住宅。この家は屋根につけた28枚のソーラーパネルから電力を得る設計になっている。ブラッドは成果を称え、「亡くなった家族や友人は戻らないけれど、復興作業を続けることで、しっかりした建物を建てて、住民の人々によりよい生活を送ってもらうことができる」と発言。」

ブラピはジャーナリズムを専攻していた大学を中退して(卒業間際だったらしい)ロサンゼルスに移り、グラフィックデザインを学んでいます。趣味はインテリアデザインで自称建築ジャンキーだそうです。
関心のある分野だから、住宅の支援に乗り出したのでしょうか。
「ニューオーリンズ訪問は1人だったが、25日はアンジェリーナも一緒にニューヨーク郊外のリゾート地・ハンプトンズで、この復興支援のためのチャリティ・ディナーを主催。4時間に及ぶパーティにはエレン・バーキンやダナ・キャランらが出席した。」
ということですから、大きな支援が出来たかもしれませんね。
「カトリーナ」のその後も耳にすることはほとんどなくなりましたが、復興はまだまだらしいですね。こういう支援はさぞかしありがたいことでしょう。

昨年5月、ナミビアでのブランジェリーナ騒動も思い出されますが、最近はアンジェリーナ・ジョリーとの不仲も噂されます。(実子もいるのだし仲良くやって欲しいと個人的には思ってますが、まあ、余計なお世話ですね。)
ブラピはアンジェリーナの養子二人の父親にもなっていて、養子の姓はジョリー・ピットに変更されているそうです。
ブラピは離婚したジェニファー・アニストンからも「世界で一番紳士で優しい人だった」と言われているそうで、少なくとも別れ上手の人格者であるのは間違いないようですね。
ブラピは役者を目指してからもなかなかぱっとせず、ストリッパーの送迎運転手など下積みを経てデビューしたのが26歳のころです。
私は「ジョー・ブラックによろしく」で無邪気に笑った顔がとても魅力的に思え、人気があるわけだと思いました。
よく「脱ぐとすごい」肉体が話題になりますが、脱がなくてもすごい俳優さんだと思います。

意外な特技がライフル射撃。ブラピの出身地オクラホマ州では、護身術として少年時代からライフルの撃ち方をマスターするそうです。
それから蜘蛛が苦手らしいです。(手塚治虫と同じ)
下のサイトにブラピの弟(一般人)の画像がありました。
http://abcdane.net/blog/archives/200412/bro_celeb.html
同じ親から生まれても、顔のパーツはずいぶんかけ離れました。でもやっぱり兄弟、優しそうで感じのいい人ですね。
(このサイトに載ってるケビン・スペイシーのお兄さんも面白いです。)

ところでブラピは陪審員の候補者としてロサンゼルスの裁判所に出廷したそうです。
http://news.livedoor.com/article/detail/3269128/
【PJ 2007年08月15日】− ブラッド・ピットが8月8日、アメリカ国民の義務である陪審員の候補としてLAの裁判所に出廷したとアメリカ「ピープル」誌が伝えている。
 43歳のピットは、Tシャツに濃い色のジーンズ、黒い帽子姿で現れたという。そして陪審員のバッジをつけ、ランチは「サブウェイ」からデリバリーしてもらっていたとある。

候補者ですから決定はしないと思いますが、もしブラピが陪審員になったりしたら、つい見とれて審理がしばしば中断しそうです。

ちなみに、ジェニファー・ロペスにも同じことがありました。。
http://cinematoday.jp/page/N0010303
(消える前にコピペしておきます。)
ジェニファー・ロペス、陪審員候補者に
2007/04/11
ジェニファー・ロペスがビバリーヒルズの裁判所で行われる審理の陪審員候補者として出廷した。「デイリー・メール」誌によると、ロペスは候補者となった一般市民の1人として、ジーンズにスモーキーなトップスという地味な姿で登場。荷物検査を受け、裁判所内へ入った。ロペスは午前中を裁判所で過ごしたが、結局陪審員には選ばれず、帰宅したそう。
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2007年08月09日

楳図さんの家

漫画家の楳図かずおさんが東京・吉祥寺に建築中の家に対し、近隣住民が工事差し止めを求めた事件。
閑静な高級住宅地に突如赤白ボーダーの派手な建物が出現し、あまつさえ鼻水を垂らした(ふざけた?)人形が塔になるわけですから、近所の人たちが当惑し抗議するのもアタリマエですね。
でも「景観利益を個人が権利行使することはできない」ことになっているそうで、お騒がせ楳図邸は計画通り建てられることになりそうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070804-00000007-sanspo-ent
あの奇っ怪なキャラの人ですから、風変わりなと言うか個性的な家を建てたがるのは無理もない気がします。

静かな住宅街に住んでいる近隣住民にとっては、迷惑この上ないことなのでしょうか。目立つからファンなども見物にやって来てざわつきそうです。
それにしても、外壁が赤白のボーダー、シンボルキャラの塔を建てるのって、よくわかりませんが、それほど論外でしょうか。楳図かずおさんのファンや、ファンというほどじゃなくても親しみを感じている人なら、マッタクしょうがないわねと苦笑してすませたかもしれません。
先日テレビで放送していましたが、別荘も外壁が赤白模様だけど、そちらは道路の間に樹木が並んでいました。別の側は派手な黄色でしたが、地元の人は「黄色の家の前を通って来て」などと目印に使っているとかで、概して好意的(無関心?)なようでした。

楳図さんの公式HPにこんなページがありました。
http://umezz.com/interview/
寝るときも含め、赤白ボーダーの服しか着ないみたいですね。同じようなのが40着もあるらしいけど、本人にはこだわりがあるようです。
本人にとっては大切なトレードマークでしょうか。
服だけじゃなくて内装もそうだし、(ここに写真がありますが)傘までそうらしいです。便器カバーセットや、たしか対談で、寝具のカバーもそうだと話していたと思います。(寝室までそうじゃ、興奮してよく眠れないんじゃないかと凡人の私は思いますが…)
さすがに「まことちゃん」生みの親です、かなりキョーレツ。
世俗的なものは超越しているのか映画も小説も見ないそうで、でもやっぱりと言うか、ヒッチコックは好きだそうです。

楳図さんは高野山地方の生まれで、おばあちゃんのコワい話を子守唄に育ったと聞いたことがあります。日本の昔話、民話というのは不気味で怖いものが多いですよね、高野山なら本格的という感じです。楳図さんの恐怖漫画の世界はそこで素地が出来たのだと思います。
「少女フレンド」のへび少女でブレークしましたが、その前に貸本に描いていた恐怖漫画の不気味さはあんなもんじゃなかったです。
私が(姉が借りてくるのを)読んでいたのはほんの子どものときですが、今でもお椀から出てきたながーーい髪の毛とか、人の頭の上で燃える火(鬼火?)とか、ぞーっとしたシーンを断片的に覚えています。
コワい漫画ばかりじゃなくてハチャメチャな漫画も描いているのは、無意識にバランスをとっていたのかもしれませんね。「まことちゃん」を恐怖漫画と同じタッチで描くのには個人的には今でも違和感がありますが。

それにしても楳図さんってもう70歳なんですね。9月3日には71歳になるようです。
昔から異様なくらいのやせぎすで顔はシワシワだから、トシを感じさせませんね。(20年以上も前に蕎麦屋で相席しましたが、そのころとあまり印象は変りません)
人気絶頂の頃、無理がたたって身体を壊し(顔がまっ黄色になったことも)、故郷で静養した時期もあるそうです。あまり寝ずに精力的に動きそうだし、太れないのかもしれませんね。本人はやせぎすなのを気にしているようで、赤白ボーダーを着るのも痩せて見えないという理由もあるそうです。
今は腱鞘炎の悪化で(いかにも腱鞘炎になりそうなタッチではありますね)漫画は描いてないそうですが、イベントに顔を出したりと毎日いろいろ忙しそうです。好みどおりの家を建てても、そこでゆっくりくつろぐヒマがあるのかどうか。
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2007年04月26日

ベターハーフ(福田みどりさん)

知人が出た結婚式で、こんなスピーチをした人がいたそうです。
「一つの球形の魂を神様が二つに割って人間界に投げ落とした。二つに分かれた魂はそれぞれ別のところで生まれ育ち、やがて分かれたもう一人の自分(ベターハーフ)とめぐり合って一緒になる。
ベターハーフは、割られた瞬間はぴったりくっつく形をしていたけど、出会うころには少しずつお互いに変形している。だから、出会った瞬間はぴったりではない。
二人を合わせたときに出来る隙間や飛び出ている部分を、相手のを削ろうと思わずに、お互いに自分の形をあれこれ修正しながら歩み寄っていくのが理想的。いつか隙間なんてどこにもないくらいぴったりな球形になれるよう、二人で努力してほしい」。
神妙な顔で聞き入る新郎新婦の姿が目に浮かびます。無事ベターハーフを見つけられた人は幸せですね、羨ましい。

「better half」(「自分より良い半身」の意)妻。愛妻。と広辞苑にはありますが(妻限定?)、司馬遼太郎さんにとってのみどり夫人はまさにそんな感じだったかもしれません。
私生活をあまり語らなかった司馬さんですが、奥さんとはぴったりくっついて隙間がない人生(夫人の方が合わせてくれた?)だったように思えます。
司馬遼太郎さんは司馬遷からペンネームを決めたそうで、本名は福田定一。夫人は夫のことを「福田」と呼ぶのは気が進まず(「福田」姓があまり好きでなかったから)、「司馬さん」で通していました。夫人の「福田みどり」は本名です。
司馬さんが亡くなって秘書の仕事からは解放されたものの、司馬遼太郎記念財団の設立に奔走して理事長、自宅そばに建てられた司馬遼太郎記念館の館長を務めています。
(記念館についてはこちらに詳しい記事があります:http://www.president.co.jp/pre/20011203/02.html
月に一度産経新聞に「司馬さんは夢の中」を執筆、ある程度量がまとまったら手を入れて出版したのが2冊目。相変わらず忙しそうです。

みどりさんは結婚後5年で司馬さんの強い要望に応じて退社してからは、国民的人気作家となった夫の窓口になって、殺到する原稿や講演の依頼を見事にさばき続けました。
司馬さんはいわゆる「外面のいい」タイプだったようで、仕事では徹底的にサービスし誰にも優しく接していた。でも実は人間関係には潔癖で、少しでも裏切られたりすると大嫌いになるようなところがあったそうです。みどりさんが嫌われ役に徹して、その人からの依頼は拒絶するような形で補佐されてきたのでしょう。
「司馬さんと一緒に陽気な旅人でいられたら」といつも思っていたそうで、取材旅行などにも同行して「さびしがり」の司馬さんの世話をしていました。ホテルに着くと取材したメモをすぐ記録したがり、みどりさんにあれこれ聞いてくる。それでいて部屋の中がちゃんと片付いているのを期待する。
みどりさんは結婚したばかりの頃、バナナを買って「これをきょうの夕食にしよう」と言って司馬さんをあわてさせたこともあったそうですから、こちらもあまりこだわりのない豪快な人なのかもしれませんね。(家の中では)首尾一貫しない司馬さんの言動を面白がる余裕があったようです。

書店で見かけて初めて買った「ラジオ深夜便」5月号に、「司馬さんとの37年」と題したインタビューが載っていました。
(これは2007年2月15・16日に「ラジオ深夜便」で放送されたものですが、4月末にCDになって発売されるそうです。NHKも商売熱心。リクエストが多いのかな?)
お二人は産経新聞本社(大阪)文化部の同僚として知り合いました。デスクが向かい合っていて、こっそりメモが回ってきて連絡をとっていたそうです。(今ならメールでしょうか)
二人の交際は極秘裏に続いていたようで、結婚は青天の霹靂。ほんの少人数の披露パーティーに、記者仲間だった俵萌子さんは「結婚式と知らずに」出席したとか。
みどりさんは結婚する気なんか全くなかった。仕事は面白かったし、家庭に入るような生き方は考えてなかった(出来ると思わなかった)そうです。

司馬さんにプロポーズされた時の話が面白いです。ごく普通に結婚を求められて
「だめだめだめ。私、精神の機械が壊れてる」
と断った。すると後日また職場でメモがするすると回ってきて
「僕が壊れた機械を直してあげます」
と書いてあったそうです。
しばらくたってからプロポーズを受けることにして
「トラピストというお菓子をあなたと一緒に食べることに決めた」と返事をしたら、
「リアリズム(現実主義)でいきますか、リリシズム(抒情詩風)でいきますか」
と、持っていた手帳に書いて渡してくれたそう。作家らしいエピソードですね。
「そんなことまでばらすのやめなさい!」って、司馬さんが真っ赤になって怒りそう。先立った罰ですね。
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2007年03月16日

向井千秋さん

近くに行ったついでに図書館の視聴覚室に寄ったら、書架にあったビデオが目に付き、50分のテープを見せてもらいました。
NHKから出ている「日本初・女性宇宙飛行士 /向井千秋さん」というタイトルのビデオです。
向井さんの場合は女性初なんていう形容詞は似合わないように思います。もともと石原裕次郎の担当もした心臓外科医として、男社会の中でバリバリ活躍していた人ですしね。
ビデオは、向井さんが初めて宇宙へ行ってメダカやヤモリの実験をしたときの話がメインです。1994年ですからもう一昔も前の話になりますね。

宇宙船コロンビア号では交代で眠るのでベッドは4つしかなかったそうで、天袋みたいな寝室から出てくる珍しい映像もありました。
このビデオには向井さんの医学博士の顔を伺わせる場面もありました。一緒に宇宙で実験をしているパートナーに聴診器を当ててデータを取っていましたが、その素早く正確なこと。さすがに手馴れた様子で、きっと外科医としての信頼も厚い人だったのだろうと思いました。
宇宙飛行士に決まったときの記者会見(1985年)の様子もありましたが、その時の方が10歳近く若いのに老けた感じでした。目も腫れぼったくて、外科医として働いていたときは慢性的睡眠不足でお疲れだったのかもしれないな、と過労から自殺したと先日労災が認められた小児科医のことを思ったりしました。

向井さんは、弟が身体が弱くて医者通いをしていたのをきっかけに、10歳から医者を目指していたそうですが、頭がいいばかりじゃなくてとても努力もしていたようです。
中学3年から進学のために親元を離れて東京に下宿しますが、その下宿の大家さんは、向井さんがあまりに夜遅くまで勉強するから、気になって困ったという話を昔聞きました。
スポーツも万能で医大時代はスキー部の主将を務めたとかいうことで、神は二物を与えずというのはウソだと言いたくなりますね。
なお趣味のひとつがバス釣りだそうで、実弟ヒロ内藤はバスプロとして有名な人だそうです。

向井さんの挫折体験は、慶応高校から推薦で医学部に入れなかったことぐらいでしょうか。
彼女自身の書いたものによれば、日本史など歴史はあまり(と言ってもかなりの高いレベルの話でしょうけれど)得意ではなく、医学部の推薦を受けるには足りなかったそうです。もっとも一般入試で合格したのですから、挫折とも言えませんね。
今回見たビデオで、私は初めて向井さんの英語を聞きました。ちょっと意外でした。
意思疎通に困ることはないと思いますが、「カタカナ英語」という感じ(日本人には聞き取りやすい)なのです。完璧というイメージのある向井さんが身近に感じられ可愛く見えました。
彼女は忙しい外科医時代に、「得意じゃないから」と英語の学校に通ったこともあるそうです。

彼女が宇宙飛行士に選ばれた4ヵ月後に、チャレンジャー号爆発事故がありました。以降の打ち上げ計画は延期になり先行き不明、このときはさすがの向井さんもかなり悩んだそうです。営々と積み上げた心臓外科医としての地位もあり、望めばそこに戻れたわけですからね。
宇宙から戻ったあとのインタビューで、地球の美しさに触れ、
「生命圏から自分たちだけが切り離されてしまって、自分たちの生きる場所がそこ(地球)しかない、なおかつ、もしかしたら事故で戻れないかも知れない、という感じ方がある。そういうところから、自分のふるさとを見るので、より一層きれいだと思うのではないでしょうか。」
http://www.avcc.or.jp/network/html/katudo/mukai/index.htm
とあり、チャレンジャー号事故の影響はどうしても残るのだろうなと思いました。

向井さんは群馬県館林市の出身ですが、その館林市には「向井千秋記念子ども科学館」というのが作られたようです。郷里の誇りとして、子どもたちに与えた影響も計り知れないものがあるでしょう。
宇宙船の中から「宙返り 何度も出来る 無重力」の下の句を募集したときは14万件の応募があったとかで、彼女の人気を端的に現すエピソードだと思いました。
男女を超越した人だと思いますが、宇宙から見た地球の印象を聞かれて、(上のインタビュー)
「ものすごくきれいなんです。キリッとした貴婦人が、白いレースの洋服を着て自分たちの前にいる感じ。弱々しいところもあるけれど、威厳もあるし、堂々としている。
地球の海が青く見えるのはきれいなんですが、雲が三次元的に見えて、何層にもなった薄いレースの洋服を着ている感じで、美しい。」
という表現には、女性らしい目を感じました。

ところで、彼女が選ぶだけあって、夫の向井万起男さんもすごい人です。
自分で切るというおかっぱ頭でおなじみですが、中学からひと筋の慶応ボーイで病理学の権威(医学博士)。
教師は超然としているべきだという信念から、学生とは一切付き合わない。とても怖い先生らしいですね。
会いたいとアポイントを取ってきた人が待ち合わせ時間に5分遅れたら、もう二度と(一生)その人とは会わない、という厳しさを持っている人だそうです。
千秋さんはそのくらいの厳しさには十分応えそうですね。

彼自身も最初は宇宙飛行士応募を考えたそうで、千秋さんの挑戦を二人で楽しんだ様子。
千秋さんは結婚は考えたこともなかったそうですが、理解のあるいい伴侶にめぐり会えて幸運だったと思います。万起男さんが、結婚式は君の好きなようにしていい、と言ったら「ほんとにそれでいい?」と、式は挙げず、「こんばんわー」とカバンひとつでやって来たとか。
毎日長電話するほか、一緒にいるときはともに楽しみ、ディズニーランドに行くと(大好きだとか。本場の方)二人して目いっぱい遊びまくるそうです。

万起男さんが「思う存分」活躍したい女性へ贈るアドバイスがあります。
http://www.ntt-f.co.jp/fusion/no32/tokusyu/index.html
「一人で頑張るのはやめなさい、強い味方を一人だけ手に入れておくことですよ。旦那さん、もしくはオフクロさん。何もかも自分でやるなんて無理なんだから、だったら家族の中に強い味方を手に入れておくに限りますよ」。
あやかりたいものです。



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2006年11月23日

若き引退(イアン・ソープ)

引き際が実にいさぎよい、と讃えるべきでしょうか。
イアン・ソープの現役引退表明には驚きました。まだ24歳です。北島康介と同い年だそうで、そう聞くと彼の若さが実感できますね。
人より早く成熟したのか、彼が400m自由形で史上最年少の世界チャンピオンになったのは、15歳のときの世界選手権です。
オリンピックでは17歳で出場したシドニーで3個(400m自由形とリレー2種)、4年後のアテネでも2個(200m、400m自由形)と計5個の金メダル、銀3、銅1。200mと400mの自由形では、今でも世界記録を保持しているそうです。
病気やケガのせいもあるでしょうが、「水泳が人生で一番重要なものでなくなった」と言って引退出来る自由があるのは、ちょっと羨ましい気もします。

競泳の選手として、あの全身を覆うようなボディスーツ型水着のイメージの強いイアン・ソープ。
あの水着はアディダスの特製で、イアンの身体に合わせて作られました。きわめてタイトだから、着るのに10〜15分もかかることがある、とインタビューで答えています。
水の溜りやすい背中とお尻の部分にシリコンを入れて水の流れをよくする。またアシカの足をヒントにした素材で、飛行機の形を参考に水の抵抗をなくす作りになっているそうです。
ちなみに彼は大柄な人で(195cm?)、足のサイズは35pもあるそうです。水着だけでなく特注にするものが多そうですね。

イアンは家族の愛に恵まれた人なのでしょう、尊敬する人はと聞かれて父と母をまずあげています。
http://www.nichigo.com.au/topics/int/2004/0405.htm
両親は決して彼にプレッシャーをかけたりせず、水泳を続けたいかと常に彼の意思を確認してくれていたそうです。
彼が水泳を始めたきっかけは、8歳のとき、姉の水泳の試合を見に行くのに飽きて、自分もやろうと思ったということです。始める年齢として早くはないように思いますが、彼の天分を見抜いて能力を素早く引き出した、優秀なコーチに恵まれた幸運も大きかったのでしょうね。

イアンの人気の秘密がルックスや水泳の記録のせいばかりではないことは、彼の水泳以外の活動を見るとよくわかります。
※ヤクルトとの共同開発飲料「THORPEDO」の発表。(ソーピード:魚雷を意味するtorpedoをもじった彼の愛称。イアン・ソープはIan James Thorpe)
※男性用下着デザイン(共同事業)。
※ゴールドコーストの超高層マンションマーケティングに参加
※コナミスポーツクラブ・オフィシャルアドバイザー
といった実業的な面のほか、
※テレビ朝日の番組に多数出演。(彼は日本びいきで、京都が大好きだそうです)
※オーストラリア観光親善大使
など広告塔としても有能。さらに、若くしてチャリティー活動にも熱心で、
※イアン・ソープ基金(イアン・ソープ・ファウンテン・フォー・ユース)を設立。
オーストラリアの先住民アボリジニなど貧困層の救済を目指す「マターナル・チャイルド・ヘルス・プログラム」に資金提供しているようです。
水泳を引退しても、ヒマを持て余すことはなさそうですね。

「僕は才能を授かったと信じている。そして、集中力と決意を持って、最高の結果を出すためにあらゆる機会を通して自分を鍛えてきた」
「(ビジネスの才能について聞かれて)プールで楽しむのと同じくらいプールの外でも楽しみたい。ほかの分野でも自分にチャレンジしたい」
「(基金に関して)僕は、命に関わる深刻な病気にかかっている子供たちの状況を変えることができる立場にいると思う。そうした子供たちの健康をめぐる問題に人々の関心を引き付けることもできる」
「人生の大切なものを得るために、潜在能力を最大限に引き出すためにハードに働くことは重要」
「(人生に一番重要なことはと聞かれて)生活をエンジョイすること、人生を楽しむこと、体験すること!」
などなど姿勢は実に前向きで、語録も素晴らしいです。

アメリカの同時多発テロの日、彼はニューヨークにいて、間一髪で危機を逃れたそうです。
その時のことを聞かれたインタビューで、
「あの事件は、いわゆる”ウェイクアップ・コール”だったんじゃないかと思う。何が大切なのかをもう一度考え直すための」
と答えています。(日豪プレスQLD版2002年1月号の独占インタビュー)
まだ20歳前の年齢で、ずいぶん大人びたことを言う人だと思いました。思慮深く視野の広い、豊かな知性と人間性を備えたオトナですね。
以前、医者志望という報道に接したような気もするのですが、まだ24歳、前途洋々。彼ならなんでも出来そう。これからどんな人生を歩くのか興味津々です。
posted by dashi at 23:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 気になる人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月28日

リチャード・ギア

きょう娘が「シカゴ」のDVDをつけたまま外出してしまったので、消すのも面倒でぼんやり見ていました。
知り合いの話では、一緒に映画館に見に行った若い女性(法学部学生)はストーリーに腹を立てて途中で帰ってしまったそうです。まあ、殺人を軽く扱ってあるので、正義感の強い若者には許せないかもしれないけど、メリハリの良く効いたエンターテインメントとしては秀逸な映画だと私は思います。
アカデミー助演女優賞を受賞したキャサリン・ゼタ・ジョーンズの演技も素晴らしいけど(妊娠中だったとはびっくりですね)、悪徳(銭ゲバと呼びたい……)弁護士役のリチャード・ギアもはまり役だと思います。
主演のレニー・ゼルウィガーも歌声も可愛いしダンスもなかなかのもので(高校時代は名チアガールだったとか)見直しましたが、二人に比べるとかすんで気の毒な感じです。

リチャード・ギアは1949年生まれだそうですから、還暦も間近ですね。
この「シカゴ」を撮るにあたって5ヶ月間タップダンスの特訓を受けたそうですが、その甲斐はあったと思います。歌って踊れてカッコイイ、しかも渋い俳優さん。そのトシには見えません。
父親はアイルランド系ユダヤ人の保険代理人で母は専業主婦。5人兄弟の次男ということですが、複雑な家庭らしく異父母の兄弟もいるようです。
ペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれてすぐニューヨークに移ったので、出身地がフィラデルフィアとニューヨークと両説あるようです。
マサチューセッツ大学で哲学を専攻していましたが、中退して演劇の道に入ります。

哲学を専攻していたのと関係あるのかどうか、本人は20年も前からダライ・ラマ14世に深く傾倒するラマ教信者として有名。ニューヨークで、チベット難民救済のための「チベット・ハウス」を私費で運営しているそうです。
チベット同化政策による中国中央政府の宗教弾圧は激しく批判していて、公の場でも理解と支援を訴え続けています。
敬虔な仏教徒でベジタリアン。親日家としても知られ、たびたび来日しています。
黒澤明監督の「8月の狂想曲」出演の際には、撮影に使用した念仏寺のオープンセットを解体して持ち帰り、アメリカの別荘に移築したそうです。

小泉サンと似ているのは本人も認めていて、2005年に来日した折りには小泉首相(当時)を表敬訪問して(主演したShall We Danceにちなみ)一緒にダンスを踊るパフォーマンスを見せました。
ところで、この会見の最後の写真撮影の際に、突然司会のマイクを使って
「中国で反国家分裂法案が制定されることに絶対反対します。小泉首相に賛同し、中国に武器が輸入されることを絶対に反対します」と声を荒らげる場面がありました。
台湾が中国から分離した場合に向けて武力行使を容認する「反国家分裂法案」に言及したものですが、対チベット政策を「文化的弾圧」と批判して来た姿勢の本気さが窺えるエピソードですね。
(その法案は2005年3月第10期全人代で採択されました)

今年の7月にはニューヨークタイムズ紙に「破滅へと続く鉄道」と題する一文を寄稿しています。こちらで全文を読めます(日本語です)のでどうぞ。
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2006/07/ny_0477.html
9月末にはネパールへ亡命しようとした丸腰のチベット人が、「犬のように」撃ち殺される場面がルーマニア人登山家に隠し撮りされてネットで世界中に流れました。
http://www.sankei.co.jp/news/061022/kok003.htm
リチャード・ギアの発言に関心を持ってくれる人が増えたかもしれません。
中国政府から刺客が放たれていそうな人ですね。幸いゴルゴ13じゃないらしい。
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2006年09月28日

橋本聖子さん

参議院議員の橋本聖子さんが、きょうの午後都内の病院で出産したそうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060928-00000117-jij-soci
41歳と書いてありますが、誕生日が10月5日ですから間もなく42歳。秋篠宮妃に続いて、高齢で出産に臨む女性の励みになるのではないでしょうか。
誕生したのは3580gの男児。彼女は上に男女一人ずつ生んでいますから3人目の赤ちゃんとなります。母子ともに健康で、来週中には公務に復帰するとか。
彼女は最初の出産の時にも一週間で仕事に戻り、ずいぶん非難も浴びました。50年ぶりの現役議員出産で、産休の制度がなかった参議院に産休を認めさせるなど先駆的な役割を果たした人ですが、一週間で職場復帰というのは、誰にもあるわけでない強靭な肉体だから出来ること。あとに続く人のためにもゆっくり休んでほしいという意見も強かったですね。助産師さんなど医学的な見地からの発言も多かったと思います。
でも彼女は人一倍責任感の強い人のようですし、議員の仕事というのもそうそう休んでいられないもののようですね。ことに内閣改造があったばかりの今はことさら忙しいことでしょう。

彼女が生まれたのが1964年10月、東京オリンピックの開会式を見に行って聖火に感動した父親が、生まれた赤ちゃんに「聖子」と名付けたというエピソードは有名です。
幼いときから「聖子はオリンピックになる」と口にして親を喜ばせていたとか。
彼女は北海道の開拓農家、牧場経営の家に、4人きょうだいの末っ子として生まれています。上の3人とは年が離れていて、あまり一緒に遊ぶことはなかったようです。
冬になると馬ソリしか交通手段のない厳しい自然環境のところで、小さいころから牧場の中にある池が凍り付いたところでスケートしたり乗馬したりしたのは、すべて父親が手ほどきしてくれたとか。
努力したらきちんと褒めてくれるけど、薄氷の張った池に投げ込まれたり(結果的に)馬から落とされるなど、かなり厳しい父親だったようです。また家事や牧場の仕事なども当然のこととして厳しく仕込まれたそうです。
強靭な肉体と精神力は、幼いころからの積み重ねの賜物なのでしょうね。

高校を卒業して富士急行に入社、19歳で初めてのオリンピックとなるサラエボ大会に出場します。それ以来、スピードスケートではカルガリー、アルベールビル(1500mで銅メダル獲得)、リレハンメル。自転車でソウル、バルセロナ、アトランタと計7回オリンピックに出場しています。これは女子として世界最多記録。
冬期と夏期両方のオリンピックに出るのは日本では彼女が初めてで、私も当時のニュースには驚いたものですが、外国では珍しいことではないそうです。スピードスケートと自転車では使う筋肉が似ていて、スケート選手は夏場の練習に自転車を用いるのはごく普通のことらしいですね。
それにしても、自転車一筋で来ていて彼女のために選考からはずれた選手もいたのでしょうね。自転車のレベルが低いというより、彼女の力がずば抜けていたということでしょう。

アトランタに出場した時は、すでに参議院議員でした。被選挙権が出来たらすぐ政界入りの話があったようですね。
オリンピック出場のための練習時間は確保するという約束で議員になったけど、実際はそんな甘い話ではなくて、睡眠時間を削ってトレーニングに励んだそうです。
それでも「議員が片手間に出来るほど自転車のレベルは低いのか」「議員ってそんなにヒマなのか」と両方から責められて、とても悩んで鬱状態にもなったということです。
恐ろしい怪物に襲われる夢をよく見たとか。
9歳年上の、先輩議員のSPをしていた警官のご主人と巡り会って結婚したことが、大きな転機となったようですね。

ご主人は病気で亡くなった妻との間に3人の子どもがありました。
もともと子どもが大好きなので、お母さんと呼ばれた時はとても嬉しかったとか。お母さんにはなれないだろうと思っていたから。
彼女は、156cmしかない身体でオリンピックに出るために徹底した肉体改造をやっていて(体脂肪9%)、何年も生理がない身体だったそうです。医者にも子どもは無理だろうと言われていたそうですが、わからないものですね。
彼女には無敵のスポーツウーマンというイメージがありますが、小学校3年の時には腎臓を患って2ヶ月の入院、2年間のスポーツ禁止という時代もあったそうです。辛い闘病生活の間に出会った、病気や障害のある子どもたちの存在が、福祉の仕事をするための政治家になる動機付けとなったようです。
彼女はたくさんの肩書きを持つ人ですが、「日本知的障害者陸上競技連盟会長」というのもその一つ。

彼女は障害児を前にした時
「もし、自分がこの子の母親であったとしても、きちんと育てていけるという自信がないのなら、議員失格だ」
という気持ちで接して来た。だから、いざ自分の子が生まれた時に五体満足であることに「よかった」とホッとした自分を今でも情けなく思うそうです。
そこまでストイックにならなくても……と思いますが、障害児の親の立場としては、こういうことを考える人が議員をして下さっていることを素直に喜びたいですね。
マスコミも、こういった彼女の姿勢をもっとクローズアップしてくれたらいいのにと思います。
公式HPはこちら。http://www.seiko-hashimoto.com/index.html
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2006年09月11日

騎手の女房

騎手の吉永正人さんが胃癌のために亡くなったというニュースを見ました。
私は競馬の事は何もわからず、この人が騎乗した馬の事も知りませんが(ミスターシービーという名に聞き覚えぐらいはありますが)、この名前は吉永みち子さんの夫として記憶しています。
この人は豪快なレースぶりから、寺山修司のエッセイに頻出していたそうです。
また、当時では珍しく体重が50キロを超える事も何度かあり、自ら厳しい減量に望んでいたそうですから、天分もさることながら強い意志の人だったのでしょう。
享年64歳。まだ死ぬような年齢ではないとは言え、息子吉永護さんも騎手をしており、待望の厩舎も開設。十分に満足のいく人生だったかもしれませんね。

吉永みち子さんの大宅壮一ノンフィクション賞受賞作「気がつけば騎手の女房」は私にとって衝撃的な、印象に残る本でした。
この人が騎手の嫁さん? 若いのに3人の子持ちのところへ後妻に? なぜ? と驚きました。
東京外大を出たあと競馬専門誌「勝馬」で日本初の女性競馬新聞記者となった吉永みち子さん。
ワイドショーのコメンテーターなどでよく知られている通り、論旨明快にものを言う聡明な美人です。きっと取材で会う騎手はみな、若くて可愛くて聡明で、気っぷのいい彼女に興味をひかれたのではないでしょうか。
その中で、妻を亡くしていた吉永騎手にプロポーズされて結婚、いきなり3人の子の母親です。のちに実子も生みます。
思春期(?)の前妻の子と堂々と渡り合う姿も、上の本には出て来ました。
本を読んで知りましたが、騎手というのは八百長を避けるためか、レースの前は隔離されるそうです。留守宅の子どもたちを託せる人が出来て、吉永騎手も安心してレースに臨めたことでしょう。

吉永さん自身は母親と二人だけで静かに成長したので、いきなり大家族の男社会に飛び込んでまごつくことも多かったようです。二人の愛情のほか、競馬誌記者の経験があって多少は騎手の生活に予備知識があったから出来た転身だったのでしょう。
競馬関係の雑誌に書いたものをきっかけに作家の道に入り、幅広く活躍。公的な仕事もいろいろされています。
それまで男のものだった競馬を、若い女性も親しみを持てるものにした。競馬の面白さを告知しファン層拡大に果たした役割も小さくはないでしょう。
また子連れの再婚や後妻に育てられる子どもへの偏見をなくすことでも、彼女の果たした役割は大きかったと思います。どれだけ多くの人が彼女の生き方に励まされ慰められ啓蒙されたことでしょうか。

数年前に離婚成立したということですが、離婚後も子どもたちや吉永正人さんとは仲良く交流していたそうです。とても多忙なようですから、離婚して自由に時間を使えるのは有り難いかもしれません。
子どもたちを育て上げて、あとは思う存分自分のために時間を使い、馬と離れて仕事をしたいのかもしれませんね。
彼女が豊富な人生経験を生かして、悩める人にずばりアドバイスしているサイトを見つけましたので、よかったらご覧下さい。質問者に迎合すること無くハッキリものを言われていて、読んでいて小気味よい文章です。
https://www1.e-shogakukan.com/muffin/public/yoshinaga/1-new/
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2006年08月29日

小椋佳さん

先日たまたま見たテレビで、小椋佳さんの息子さんの話をやっていました。
24時間テレビだったでしょうか、途中から見たので記憶もあいまいです。
小椋佳さんは銀行員と二足のわらじを履いたシンガー・ソングライターの時代を経て、卒業した東大の2学部に入り直したり、胃がんを患ったりと何かと話題に上っていた人ですが、この息子さんの話は聞いたことがありません。
ああやって公にした以上はこれからドッと情報が出て来るでしょう。「感動秘話!」と、女性週刊誌が大喜びで飛びつきそうなネタでした。

小椋さんは卒業後銀行に就職してまもなく、学生時代の恋人と結婚します。かほりさんという名の女性だそうで、「シクラメンのかおり」じゃなくて「かほり」にしたのはこのためだと言われます。
愛妻家で有名銀行員で、稼ぎのいい音楽家で……と、非の打ち所がない人ですが、息子の目にはよき父親とは映らなかったようです。「頭のいい大人の人」といった位置付けで、小言や説教しかしない親しめないお父さんだったようですね。
次男の(神田)宏司さんはある日、子どもには珍しい脳梗塞で倒れ、入院します。後遺症で全身麻痺だった宏司さんの回復のきっかけとなったのが、小椋さんが手を取って歌う歌だったそうです。

病気のあと学校をやめて家に引きこもっていた宏司さんが、現在は日本に4人しかいない琵琶職人になったのも、小椋さんが誘って一緒に琵琶を習い始めたのがきっかけということです。
上野で料亭を経営していた小椋さんの父親は、若いころには師範もするくらいの琵琶の名手だったそうです。人前には出さなくなった琵琶を夜更けにひっそりと弾いているのを聴くのが小椋さんは好きだったそうですから、そういった影響はあるのでしょう。

私が初めて小椋さんのLPを手にしたとき、ジャケットに歌手の顔写真がないのを不思議に思いました。
友人が「いい曲だから」と貸してくれたのでしたが、名前を見ても男か女かすらわかりませんでした。のちに雑誌に載った写真を見て、歌や声とのギャップに正直なところ驚いたものです。
小椋さんのデモテープを聞いてデビューを決めたプロデューサーが、本人に会ったら売り出すのをやめた、という有名な話があるそうです。マスコミに露出しない分兼業をしやすかったでしょうし、本人も「マーケットにおもねること、媚びる必要もなく好き勝手に作詞作曲出来た」と語っています。

曲や声は繊細な人を想像させますが、本人は体育会系で小学生のときは野球、中高ではバスケット、東大でもボート部に所属していました。歌は通学の時やお風呂で口ずさむくらいで、音楽の道に進むことは考えてなかったそうです。
ただ高校生の頃から神経質な哲学少年の面はあって、自分の生きた証しとしての芸術を模索し、芸術家やその卵たちと積極的に関わった。寺山修司とも学生時代から面識があり、26歳でデビューするきっかけともなりました。
年に1枚か2枚のLPを発表する形をとりながら、忙しい銀行員の生活を49歳まで続けました。
曲づくりは仕事を休める年末年始にまとめて、といった時期もあったようです。
仕事は多岐にわたり、数々のヒット曲のほか、東京都盲人福祉協会の歌を作ったり(http://www.normanet.ne.jp/〜tomou/song.htm)、ミュージカルの制作や公演、執筆活動、講演などと活躍中です。

※小椋佳作詞・作曲の歌の一部。
少しは私に愛を下さい/白い一日/シクラメンのかほり/夢芝居/愛燦燦/揺れるまなざし/俺たちの旅

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2006年08月17日

かこさとしさん

子どもと一緒に行った図書館で、別冊太陽・絵本の作家たち4というのを見つけました。
寝る前に毎晩読み聞かせをした娘たちが大きくなって、絵本も今はたまに見るぐらいですっかりご無沙汰ですが、表紙にある絵本に懐かしさがこみあげました。
娘たちが大好きで繰り返し読み、今も捨てることが出来ずに家の本棚に置いてある一冊です。
赤いダルマと天狗がジャンケンポンをしている絵本。

子育ての経験がある人や、子ども時代がそう遠い時代ではなかった人なら、一度はこの人の絵本を手にしたことはあるのではないでしょうか。
「だるまちゃん」や「てんぐちゃん」、「カラスのパンやさん」。
かみなりどんの国に行った話では、あらゆるものにカミナリのツノみたいなものがあるのが面白くて、うっかり書き忘れたのがないかと必死で探したりしました。
そして、すぐいなくなってしまう「とこちゃん」。「とこちゃんはどこ」という「ウォーリーをさがせ」の日本版みたいな絵本は、うちの娘たちも大好きでした。

この絵本作家のかこさとしさんは、加古里子さんと書きます。男性です。
1926年福井県生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業のあと昭和電工の研究室に25年間勤務されていた工学博士ですから、「だるまちゃん」みたいなのばかりでなく「宇宙」「地球」など確かな科学知識に裏打ちされた、啓蒙色の強い絵本も多数出されています。
子どものころは田舎に住んでいて、虫が友だち、工作も好きでおもちゃも自分で作っていたそうです。
でも絵を描くと学校ではほめられるのに、お父さまは「絵描きになっても食べていけない」と大目玉。だから家では隠れて描いていたとか。

他の子と同じように軍国少年で模範生だったけど、目が悪くて(近視)兵隊にはなれなかったそうです。当時としてはずいぶん非難されたことと想像されます(非国民、と)。
軍需工場に動員された先で慢性盲腸炎のため入院したり(この時期に、高校の国語の先生だった中村草田男さんに俳句の手ほどきを受けたそうです。絵本づくりにとても役立っているとのこと)、結核で2年療養したこともあるそうですから、身体自体はあまり丈夫でなかったのかもしれませんね。
友だちはみんな特攻隊になって死んでしまったのに、自分は生き残った。これからの人生は拾ったものだと思って、日本の子どもたちが賢く健やかに育つためになんとかしようと思ったそうです。

仕事の傍ら劇団に参加したり、セツルメント運動に参加して舞台装置を作ったり(理科系ですから好きで得意だったとか)、脚本を書いたりと地道に長く活動されたようです。戦後には進駐軍相手に似顔絵を描くアルバイトをして稼いだそうですから、いろんなことを器用に手早くこなす人なのでしょう。
若いころに書いた雑文や、書きかけの物語、紙芝居などがたくさんあって、これからの目標としてはそれらをきちんとまとめたい。なかなか進まないが、ということです。
元気で長生きして、さらに楽しい絵本を世に送り出してほしいものです。
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2006年08月13日

デビッド・ベッカム

おそらく世界で一番知られたサッカー選手、デビッド・ベッカム。
イングランドチームの主将を務めていたぐらいだからその力量は文句なしなのに、マスコミに登場する時は元アイドルの夫人とのゴタゴタや、豪邸をベッキンガム宮殿と揶揄するなど、あまりの人気に記者のやっかみが露骨に感じられる内容のものばかりでした。
今回、彼がイングランド代表をはずされることになり、前もってその通告を受けた時に「号泣した」などと相変わらずマスコミは意地の悪い報道ぶりです。

派手な暮らしぶりばかりが報道されるベッカム夫妻ですが、実は夫婦ともボランティア活動に熱心。いくつものチャリティを支援しているし、夫妻自らが総裁や代表を務める団体もあります。
税金対策という一面はあるにしろ、その絶大な知名度を生かせるのは有り難い存在だと思います。
ベッカムは2002年にスポーツイベントの開会式で、難病に苦しむ女の子と一緒にトーチを持って聖火リレーに参加したこともあります。
またユニセフとは長いつながりがあり親善大使も務めていて、スマトラ沖津波のユニセフ募金活動では、とても大きな役割を果たしたそうです。

デビッド・ベッカムはロンドン郊外で美容師の母と工員(技師)の父の間に生まれました。
父はプロのサッカー選手を目指していた人だそうですから、幼い頃から薫陶は受けたのでしょうね。少年時代からイギリスのユース・チームの中でも抜きん出たスターで、その練習熱心さは他の追随を許さなかったと言います。
わずか17歳のときマンチェスター・ユナイテッドでデビュー、その数ヶ月後18歳でプロとして最初の契約。
以来第一線で突っ走ってきました。現在まだ31歳の若さですが、苛酷なプロ生活自体は短いとは言えないですね。

ところでこのベッカム、ワールドカップドイツ大会を目前にした4月初めに、イギリスのテレビ番組のインタビューで「自分はOCDに悩まされている」と告白しました。
「何でもまっすぐに並んでいないと気が済まないし、なんでもペアになってないと我慢出来ない」。
冷蔵庫にコーラの缶が3本あると1本は出さないといられない。ホテルの部屋に入ったらまずパンフレットや本を並べ直し、引き出しにしまわないとリラックス出来ないそうです。
そうと知るチームメイトが、わざとホテルの部屋に来て散らかしていくイタズラもあったようです。
こういうハンデがありながらチームプレーを続けるのには大変なことも多いでしょうね。
このOCD告白は同病の人を勇気づけるとして、好意的に受け止められているようです。

OCD(Obsessive Compulsive Disorder 強迫性障害)は、かつて「強迫神経症」と呼ばれていました。
繰り返し生じる不安な考えやイメージ(強迫観念)を打ち消すために、不合理なことだとわかっていてもさまざまな行為をせずにおれない(強迫行為)心の病気です。
代表的な症状としてよく知られているのは、ばい菌に汚染されていると感じて何度も手を洗わずにはいられない「洗浄強迫」でしょうか。レオナルド・ディカプリオが映画「アビエイター」で演じたハワード・ヒューズはまさにこれでした。一部の自閉症と相通じるものもありますね。
余談ですが、私も子どものころ強迫観念に強迫行為を強いられた思い出があります。ある夜寝床に入ってから、ガスが漏れるのが心配で心配で(寝ている間にガスが漏れて死んじゃったら…と)、台所のプロパンガスの元栓(掴んで回すタイプ)を何度も何度も締めに起きたのです。翌朝眼を覚ましたら、「誰が締めたのか、ガスの元栓がキツすぎて開かない」と騒いでいました。非力な私がやったとは誰も思わなかったらしい……。

OCDは昔は直りにくい病気と思われていましたが、現代では研究も進み(セロトニン仮説や脳の画像研究など)有効な薬も開発されたということです。
ベッカムももし日常生活に支障が出るほどひどくなるようなら、治療を受けてその経験を語ってほしい気もします。その際にはマスコミも優しい筆致なのではないでしょうか。
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2006年08月12日

TRF

お久しぶり!って感じでまた活動を始めたTRF、きょう5人揃って「徹子の部屋」に出ているのを見かけました。
そこで徹子さんが「平均年齢は」40何歳かと発言したので驚きましたが、たしかにリーダーDJ KOOさんの1961年生まれを始めとして、一番若いCHIHARUさんでも67年の生まれだそうです。
ダンスは若い人のものかと思っていましたが、経験の積み重ねもものをいう世界なのかと認識を新たにした次第です。

新曲を出す度に爆発的に売れ、一時はあのエネルギッシュなダンス曲をテレビや街角で耳にしない日はないくらいでした。
TRFというのは初めは小文字のtrfで、Tetuya-Komuro Rave Factoryの頭文字を採ったものだそうです。当初は小室哲哉さんが主宰するイベント「TK Rave Factory」に参加している匿名性の高いユニットで、CDデビューも初めはほぼ10人組、93年夏から現在の5人にメンバーが絞り込まれたということです。

グループ結成からもう15年。TRFとしての活動はあまりしなくても、それぞれ独立した仕事で活躍していたらしいですね。
メンバーそれぞれがリタイアもせずスキャンダルも起こさず、ひたすら精進していたということは言えそうですね。これからも息長く活動してほしいなと思います。
TRFのパンチのきいた音楽は息子も大好き。部屋に古いCDを持ち込んで、毎日大音響で聞いています。ライブには連れて行けないと思うけど、テレビ出演の機会があったら、私も一緒に見たいと思っています。

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2006年07月20日

元気なスイマー

東京都の安井悦郎さん95歳が、15日の日本マスターズ水泳選手権95歳以上の部に出場。
男子100m自由形で、3分30秒27のタイムをマーク。この年代でこの種目で完泳した人はいないため「日本記録樹立」となったそうです。
http://www.asahi.com/sports/update/0715/163.html
77歳から泳ぎ始め、現在も週5回、一回に400〜500m泳いでいるとのこと。若い時は電気関係の技術者だったそうですから、デスクワークばかりのサラリーマンとは身体の鍛え方が違うのかもしれませんね。
それにしても95歳でこの体力、うらやましい限りです。
(ちなみに、同じ男子100m自由形の記録を調べてみましたら、世界記録は47秒84、日本記録は49秒71。学童記録は54秒81ということでした)

一方アメリカでは、もとオリンピック金メダリスト、35歳ゲーリー・ホールさんの話題。
妹と一緒にフロリダ沖で水中銃を使って魚をとっている最中にサメに襲われました。妹は腕を噛まれて19針も縫うケガをしたものの、サメの鼻先を殴ったり蹴ったりして激しく抵抗、最終的には水中銃で撃退して本人は無傷だったそうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060719-00000065-jij-ent
男子50m自由形などで金メダルをいくつも獲得したことのある人らしい、
「50mのスプリットタイムがどのくらいだったかわからないが、あんなに速く泳いだのは久しぶり」
と余裕のコメントを残しています。

ところでこのゲーリー・ホールさん、父親は3回の五輪出場を果たしたメダリストスイマーというサラブレッド。
本人も1996年のアトランタでは金2銀2と大活躍をしました。
しかし2000年3月には1型糖尿病を発病してしまいます。一時は引退を考えたホールさんですが、インシュリンを打ちながらさらにオリンピックを目指す決心をしました。
糖尿病は筋肉にエネルギーのブドウ糖が入らない病気なので、百分の一秒を争うオリンピックは無理と、3人の高名な医師が主治医を断ったそうです。
アン・ピーターズ先生と運命の出会いをし、代表選考会にも大会にも同行してもらって、シドニーでは金2銀1銅1と大活躍。「糖尿病はキャリアを台無しにするような病気ではありません」と、世界中の糖尿病患者を大いに力づけてくれたそうです。
彼は2008年の北京五輪でも金メダルを狙うことを誓っているそうですが、サメを撃退した迫力で是非成し遂げてほしいものですね。
posted by dashi at 00:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 気になる人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月08日

三善英史と母

あまり笑顔を見せない美少年が切なげな高い声で
「雨に濡れながら たたずむ人がいる……」
「……恋はいつの日も捧げるものだから じっと耐えるのが務めと信じてる」
と唄って鮮烈なデビューを果たしたのは1972年。もうずいぶん昔のことになりました。
三善英史(みよしえいじ)さん。
当時は17歳だったそうですが、最近の写真では額が広くなった中年のオジさん。残念ながらあの端正な少年の面影はまったくありません。
73年に話題づくりのために出された「円山・花街・母の街」で紅白初出場を果たし、75年まで連続出場。その後ヒット曲には恵まれませんが演歌歌手としての地位は揺るぎないものになったようで、今も現役の歌手・俳優として活躍。小栗判官まつりのゲスト出演、といった仕事もあるようです。

YOMIURI ONLINEで見つけた記事によれば、今年85歳の母親(田村二三さん)はアルツハイマー病。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kaigo/note/20060601ik08.htm
三善さんは結婚して近くに住み、お母さんは長年お姉さんと二人だけで暮らしていました。アルツハイマーが進行して目が離せなくなってからは、三善さんも週に4、5日は泊まり込んで手伝っているそうです。
お姉さんは介護のために仕事を辞めたそうですが、年齢的にも無理はきかないでしょうし、優しい弟の存在は有り難いだろうなと思います。.
少し前までは三善さんの奥さんも交代で通って世話をしていたそうですから、週刊誌が喜びそうな夫婦の危機というものではなくて、ホントに母親思いの親孝行な息子さんのようですね。お母さんの方も、相手がお嫁さんだと恐縮してリラックス出来ないようです。

「円山・花街・母の街」は三善さんは(公演では必ず歌うものの)あまり好きではないそうですが、境遇としては歌の通り(「母になれても妻にはなれず」)です。
お母さんは渋谷・円山の花街で芸者をしながら三善さん姉弟を生み育てました。歌と違うのはお涙頂戴の哀れっぽい人ではなかったということ。
自分の父親は誰なのか、三善さんはいつか聞こうと思っていたそうですが、先にお母さんが認知症になってしまった。年齢的にもう亡くなっているでしょう、と淡々と話しています。
お母さんはとても優しい人で、叱られたことも手をあげられたこともない。子どものころいじめられたらいじめっ子を諭してしてくれたようです。

優しい性格のまま認知症になってくれ、「かわいいおばあちゃん」。徘徊などもなくて穏やかに日を過ごしているそうです。
動物や子どもが好きなので、そういうのが出ているテレビは熱心に見る。大きな声は苦手で、ドラマのケンカのシーンには「なんでそんな言い方するの」と怒るそうです。
家の風呂場が狭いのでお姉さんが銭湯に連れて行くと、周囲にいる人が助けてくれるそうです。アルツハイマーがとてもゆっくり進行しているとかで、まだ深刻な段階には達していないようですね。
今は申し分ない家庭に育っても親を恨んで殺す子どもまでいる時代なのに、息子と娘に大切にされて、羨ましい老後だと思います。

若いころは作法の厳しい芸者だったので、古風な人とのこと。三善さんが出かける時は背中で切り火をしてくれていたそうです。
行儀悪く大口開けてかじるという食べ方が出来ない。箸で小さく切って食べるし、かき込むような食べ方も出来ないそうです。
いつもニコニコしていて、トイレに連れて行ってもお礼を言ってくれるとか。
晩年は上品なかわいいおばあちゃん。
不義の相手(たぶん)に迷惑をかけず、父親の名を明かさないまま去っていくであろう信念の人。子どもは一人で大切に育て、家族三人ずっと深い愛情で結ばれている。
一人の女性の生き方として、芯が通っているなあと脱帽する思いです。
posted by dashi at 23:06| Comment(5) | TrackBack(0) | 気になる人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月21日

トム・クルーズ/LD

100円で借りて来た「宇宙戦争」を遅ればせながら見ました。
監督がスピルバーグ、主演がトム・クルーズなのでそこそこ客は入ったと思うけど、かなり微妙な映画でした。スピルバーグらしい観客サービスもあったけど、ティム・ロビンスを始め配役にも不満が残りました。ジュラシック・パークは最高でしたね〜。
次女は「突っ込みどころ満載」、私は「中途半端でイマイチ」なのに対し、劇場で見た長女は「かなり気に入っている」と我が家でも評価が分かれました。

それはともかく、トム・クルーズがこんな大きな子の父親役をするようになったか、と時の流れを感じてしまいました。もっとも、実生活でも養子二人はもうだいぶ大きいようですから(実子は生まれたばかりですが)、父親役も板についているかもしれません。
トム・クルーズは「ザ・エージェント」が最高。いやいや「MI」でしょう。何と言っても「レインマン」の自分勝手な弟がはまり役! と三人三様こちらも意見が分かれました。
初の悪役(殺し屋)にも挑戦しましたが、トム・クルーズは知性的な正義漢の役柄が似合う俳優だと思います。
彼が子どものころ学習障害(LD)で悩んでいたなんて、信じられないですね。

トムはLDの一つの型・失読症(ディスレクシア)です。
bとd、pとqの区別が出来ず、行を飛ばすなど教科書をうまく読めなかったといいます。
高校までLDのための特別学級に入っていて、いじめられもしました。みんなのように本をすらすら読めたらどんなにいいだろうかと悩んだそうです。
スポーツには何でも熱中して、集中力を高める努力をしました。
学校に宿題を提出する時は、口述したものを母親に書き取ってもらい、それを慎重に書き写していたとか。暴力をふるう父親に殴られて育ち、親の離婚後は極貧で育ったトムですが、母や姉たちは温かく励まし協力してくれたようです。

私の幼なじみにも今思うとLDの子がいました。
ふだん遊んでいる分には全く不都合はなく、優しくていい子なのに、勉強の方は全く出来なかったようです。一度指名されて教科書を読まされたら、つかえてほとんど読めないのに驚きました。
知的に遅れているようには思えなかったけど、ずっと特殊学級(当時)で知的障害児などと一緒に授業を受けていました。
成長してきれいな娘さんになり、しばらく働いたあと結婚して母親にもなりました。
トム・クルーズも似たような感じだったのかなと思います。

中国に住んでいた頃、アメリカ人の奥さんに「日本人は羨ましい」としみじみ言われたことがありました。日本人は漢字がわかるから、いざという時は筆談が出来るというのです。
彼女は英語と日本語(夫は日本人)のほか中国語も少しは出来ましたが、話すだけで書くのは全くダメということでした。地方に一人で旅行したら中国語のなまりが強くて聞き取れず、英語も日本語も通じなくてとても困ったことがあったそうです。
LDの人の苦労と通じるものがあるかもしれませんね。

トム・クルーズもLDであることを長く隠していたそうですが、トムのカミングアウトは多くの人を力づけたことでしょう。トムの場合は宗教に拠り所を求めたようですが、あまりカネのかからない正式な教育を通じて、適切な援助を受けられるようになってほしいと思います。
ところで、私が初めて中国語圏に行ったとき朱肉を買おうとして単語がわからず(印泥とあとで知りました)、結局ハンコをつくジェスチャーをして用を足したことがありました。
LDも関係なし。最後はノンバーバル・コミュニケーションですね。
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2006年06月16日

有賀さつきさん

もとフジテレビアナウンサーの有賀さつきさんが、離婚後初めての記者会見にのぞんだそうです。
離婚自体は5月中旬だったそうですから、気分的にもだいぶ落ち着いたころかもしれませんね。
結婚相手はフジの先輩政治記者で、年もひと回り上。夫婦よりも上司と部下という感覚だったそうですが、さもありなん。家庭がくつろぎの場所でないのは辛いと思います。
夫婦の会話がかみ合わず、出産前から違和感はあったとか。子どもが生まれたら変化があるかも、と我慢したけど子どもが3歳になったのを機に決心したようですね。
女性に生活力がある場合は、離婚をためらう必要はあまりないでしょう。いがみあう両親を見て育つより、たまに会って親しく会話する姿を見る方が子どもの人格形成のためにはいいと思います。

有賀さんは英語が堪能なほか、小型船舶4級、A級ライセンス(女性では珍しいですね)、JAAアロマコーディネーターや、料理・製菓でも資格を持つなど才色兼備の多才な人らしいです。
生活のために仕事はなんでもやります、と燃えているそうですが、仕事が見つからないことはないでしょう。周囲の男性もほっとかないでしょうしね。
フリーアナウンサーをしていたということは、見てくれはもちろん最高級、話術も巧み、度胸もある。読み聞かせも手慣れたものではないでしょうか。羨ましいかぎりです。

この有賀さんがインタビューの中で、
「娘を授けてくれた彼に感謝します。育児も手伝ってくれた」
としんみり語ったそうで、いい話だなあと思いました。
有賀さんがどんなに万能な女性でも、出産に適した年齢には限りがあります。
医学が進歩して栄養状態もいい今は、昔ほどには高齢出産の危険性もないでしょうが、難産になったり障害のある子どもが生まれる確率が高いのは厳然たる事実。
キャリアウーマンにとって結婚・出産は勇気のいる選択でしょう。出来ちゃった婚と揶揄されながら、おそらく励ましたり叱ったりしながら30代後半の出産へ引っぱってくれた夫の存在は、かけがえのないものだったと思います。

それにしても、私も経験者だから実感しますが、離婚した女性に対して無神経な発言をする人のなんと多いことか。
私が今年になって知り合ったある女性は、自分は一人っ子(健常児)が高校生のときに夫を亡くした人ですが、私が離婚していると知ってからは、しきりと私の境遇をうらやみます。
私がほとんど働かずに生活出来ていることがとんでもないゼイタクにでも思えるのか、
「養育費をきちんと送ってくれてエライね。ダンナさんに感謝しなきゃね」
と言います。そりゃあそうだし悪気はないのだろうけど、余計なお世話です。私は言われる度にいい気分はしないので、彼女に会うのを避けるようになりました。

今回の会見でも、慰謝料や養育費について無遠慮な質問が出たようです。それに対して、
「私が言うことじゃない。彼が娘のために何かしたいと思うなら、彼が決めること」
と答えた(いなした?)そうで、つくづく賢い人だなあと思いました。
プライベートなことには立ち入らず、そっとしておいてほしいというのが有賀さんのホンネでしょうね。
今後マスコミで仕事するなら、そっとしておいてももらえないでしょうが、めげずに元気で活躍してほしいものです。
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2006年06月07日

マルチナ・ヒンギス

「35歳になったときに後悔が残るのはイヤなので、25歳の今、チャンスが戻って来て嬉しい」。
足の故障などで引退し3年3ヶ月の間ツアーを離れていたマルチナ・ヒンギスが、低年齢化の激しいプロテニス界に戻って来ました。10代で長くトップの座を占めていたマルチナ・ヒンギス。まだ25歳なんですね。
12歳当時のシャラポワに練習をつけたこともあるそうで(キャリアの長さを実感させられます)、対戦が叶って嬉しいとインタビューで答えています。
「以前は母が私の代わりに考えてくれていたことを、今は自分で考えるようになった」。
人間的にも円熟味が増したようです。

マルチナという名前は、同じチェコスロバキア出身のマルチナ・ナブラチロワ(当時24歳)にあやかって命名されたそうです。
生まれたのはチェコスロバキア(現スロバキア)のコシツェ。父親はテニスコーチ、母親はチェコの代表選手だったと言いますから文句なしのサラブレッドですね。2歳からテニスを始めたそうです。
両親の離婚で父親とは7歳で別れ、母親の再婚相手の養女となりスイスへ移住するのが8歳のとき。
早熟な才能開花で、プロになったのは14歳の誕生日の2週間後です。
あとはトントン拍子で、最年少記録を次々と塗りかえながら活躍を続けます。
しかし両足とも手術を要するようなケガを再三したようで、22歳で無期限の休養宣言。
「ヨネックス・テニス・フェスティバル」に参加するなど、競技とは違う形でテニスの振興に尽力していました。
またスキーや乗馬をしたり、頭と身体の充電に努めていたそうです。

日本ではテレビCMでも親しまれました。グリコのカフェオーレ、タニタのヘルスメーター、日本食研のバランスデイトなど。
私は緑色のテニスボールをかじる映像が印象に残っているのですが、ヒンギスで間違いないか自信がなく、調べてもわかりませんでした。(別人だったらごめんなさい)
間違いないということで話を続けると、あのテニスボールは特製のチョコレートで出来ていて、本人はおいしいとお気に入りだったそう。でもマネージャー役のお母さんに全部は食べさせてもらえなかった、と聞きました。
ヒンギスは170センチ59キロというデータがありますが、その時には、食べたいものを無制限に食べる自由はないのだなあと思ったことでした。
今は「自分の代わりに考えてくれる」お母さんは卒業したようなので、自分で判断することでしょう。
今後の活躍が楽しみです。
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2006年05月31日

マイケル・ジャクソン来日

お忍びで来日したマイケル・ジャクソンが有楽町のビックカメラに来店したというニュース。
閉店後に入って衝動買いしまくったそうですが、群衆が車を取り囲んで騒いでいました。
一緒にテレビを見ていた娘が「閉店後じゃないとパニクって万引きし放題だね」と言うので、同じニュースを見ても考えることは人それぞれだなあ、同床異夢とはうまく言ったもんだ、と納得。
「万引きしたらピーピー鳴るんじゃないの」
「鳴ったって、多すぎたら店員も対応しきれないでしょ、ほっとくんじゃない。まあ、日本じゃそんなことしないか」
店員も(仕事をほっぽり出して)マイケルを見に行くでしょうね! めったにないことだし。略奪も日本じゃ起こらないって思いたいです。

その前日には渋谷のパチンコ店「マルハン」で大はしゃぎ。
夜11時近くになって来店、貸し切り状態で楽しんだそうですが、たちまち人だかりが出来てパトカーも出動する大騒ぎになった様子。
子どもを連れてディズニーランドで遊んだり、児童福祉施設を慰問したりと精力的に動き回ったようです。児童施設では子どもたちに「アイシテル」と日本語で言う場面もあったとか。
(子どもたちに対するものなど慈善活動には以前から熱心で、基金を作ったり大口の寄付も続けているようです。大統領から感謝状をもらったこともあるそうですね)
3人の子供を連れて回っても、子どもはマスク(仮面)で顔を隠しているというし、人気者(とその子ども)も大変だなあと同情した次第です。

大変と言えば、マイケル・ジャクソンは児童虐待の裁判で莫大な借金を負ったそう。「シカゴ」の弁護士みたいなのをまとめて雇って、無罪を金で買ったようなものでしょうからね(冤罪だという人もいますが)。
米紙ウォルストリート・ジャーナルの報道だから眉唾ではないと思うのですが、マイケルは3億2,500万ドル(約385億円)の借金削減と破産回避のため銀行などと交渉、ソニーATVミュージック・パブリッシングの保有株50%の半分を手放すことを検討中という話です。
この会社はビートルズの約250作品をはじめボブ・ディランの「風に吹かれて」など数千曲の著作権を管理する会社で、時価総額10億ドル以上。マイケルの持つ中で一番の優良資産ということです。
ポール・マッカートニーとの親交もあるマイケルにとって残念な事態でしょうが、そのうち挽回してほしいですね。

マイケルはアフリカ系アメリカ人が8割以上を占める街に、9人兄弟姉妹の7番目として誕生。それだけ子どもがいるといくら親の稼ぎがよくても豊かとはいかないでしょうね。
貧しいクレーン操縦士の父親は厳しく、しばしば子どもに手をあげたそうですが、母親は敬虔なクリスチャン。マイケルもその影響を深く受けて育ったとのことです。
もとミュージシャン志望だった父親が子どもたちの音感に注目、貧困から抜け出せるかもと仕込みました。マイケルも5歳から特訓を受けたそうです。そして売り出すのに大成功をおさめたわけですね。

マイケルの顔の整形は、最初は舞台で転んだための医学的なもの。二度目はより高い音を出すための鼻の整形で、これはマイケル自身も認めているそうです。初めの整形の結果が気に入ったから繰り返しているのでは、とのこと。
なお皮膚の色は「白なまず(尋常性白斑)」という父方に由来する病気のための脱色で、メラニン色素を攻撃して作れなくする自己免疫疾患だそうです。(黒人は2%強の罹患率とか)
この病気、日本では森光子さんが有名ですね。日光を浴びられないと聞きました。

マイケルは子どもの頃から身体に白い斑点があったと言います。
白班が50%を越える場合、見た目の統一感のために薬を塗って残りの皮膚の色素を抜く治療法もあるそうですから、クスリによる脱色というのは一面の真実なのかもしれません。
しかし流布されている噂では、<白人になりたくて>危険な薬を飲んでいる、だから内蔵はガタガタといった心ない内容のようです。ずいぶん悪意をもって語られるものですね。人気者は敵も多くて大変です。
日本の休日が心休まるものになりますように。
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2006年05月29日

ケロッケ、コロッケ

今朝の朝日新聞・ひと欄で知りましたが(これがあるから購読をやめられない)、ちあきなおみや五木ひろしのモノマネでおなじみのコロッケの、一つ違いのお姉さんがケロッケという芸名で4月にデビューしたそうです。
コロッケのひとつ上だからケロッケ、冗談みたいですが芸はなかなか達者な人らしいです。
病院で6年半も介護ヘルパーとして働いていたそうで、楽しいキャラが患者に大受け。知的障害者の作業所などへボランティアで慰問に訪れ、地元の佐賀では3年も前から人気者だったようです。

実際にショーを見た人のブログに写真も載っていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/zai69zai69/2702952.html#2733132
コロッケにそっくりで(新聞の写真でも、似てるなあと私も思いました)笑えて、ものまねもそっくりだったそうです。
さすがにコロッケの姉、血は争えませんね。とても楽しいショーで、久しぶりに腹を抱えて笑ったとのこと。
桜田淳子や山口百恵、山本リンダのものまね、……見たいものです!
NPO法人:博多笑い塾の所属ということでしょうか。ケロッケさん自身「笑いは安らぎ、健康のもと」を信条にしているそうです。

コロッケ姉弟は熊本市の出身、コロッケは20歳そこそこで「お笑いスター誕生」でデビューしたものの力不足、7年後に「ものまね王座決定戦」で優勝するまで夜の盛り場で修行を重ねたとのことです。
いろいろ大変だったのでしょうが、苦労人臭さのない物静かな礼儀正しい印象。過激なものまねをしても、嫌味がなくて素直に笑えますね。
本人は「B型だから割り切りが早いのかも」とインタビューで語っていますが、
http://www.sankei.co.jp/enak/2005/jun/kiji/24croquette.html
道ばたで転んでケガをしても、「ああ、車が来なくてよかった」と思うタイプだそうです。
お母さんと姉弟の母子家庭で、お母さんは仕事から深夜に帰っていたとか。そんな中でもお母さんはいつも笑っていたそうで、それは姉弟にしっかり受け継がれた様子。

弟は上京しましたがお姉さんの方は九州で家庭を持ち、3人の子育てをしながら「動物の鳴きまね」の芸を磨いたとか。
(子どもたちもものまねがうまいのか、個人的には大いに興味をひかれます。いい師匠に育てられたわけですからね。笑)
長男が20歳ということなので、子育てもそろそろ終わりなのかもしれませんね。
家族の応援を背に40代後半からデビューして、みんなに大喜びされながら活躍出来るケロッケさんが羨ましい。
いつまでもお元気で、弟とカツを入れ合いながら切磋琢磨し、私たちのNK細胞を増やしまくって下さい。
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2006年05月27日

難病支援

俳優の渡辺謙さんが、C型肝炎を患っていることを公表したそうです。
彼は90年「天と地と」アメリカロケ中に白血病であることがわかり、映画を降板。一度は寛解(白血病の場合は治癒とは言わないそうです)したものの94年に再発。白血病はいったん再発したら治る可能性は極めて低いそうですが、驚異的な体力と気力で乗り越え、99年に「完治」したということです。
彼の奇跡的な生還は、同じ難病に苦しむ人たちにとても大きな励ましとなっているようですね。

彼も骨髄移植を受けたそうですが、手術を受けると移植した骨髄が生着するまでの間、自分では血液を作ることが出来ません。骨髄移植は自分の(病気の)骨髄を放射線ですっかり殺してしまってから、ドナー(提供者)の骨髄を移植する仕組みだからですね。
(もしドナーと血液型が違っている場合は、ドナーの血液型に変わってしまうそうです。)
自分で血液を造り出せない時期がある以上、その間は大量の輸血が必要となるので、残念ながら肝炎に感染してしまうことは珍しくないことのようです。
これからも渡辺謙さんにはますます充実した仕事をしてもらって、白血病のみならず同じC型肝炎と闘う人を大いに励ましていただきたいものです。彼の存在そのものが大きな支援ですからね。

「孫」の大ヒットで一世を風靡した演歌歌手の大泉逸郎さんは、息子さん(「孫」の父親)が急性骨髄性白血病に倒れ、年齢的に厳しいと言われながら骨髄移植のドナーになった経験をお持ちです。
それ以来骨髄バンク支援をライフワークと位置付け、支援のためのチャリティコンサートを開いたり募金を呼びかけるなど積極的に支援を続けているそうです。骨髄バンクからしたらホントにありがたい存在でしょう。
骨髄バンクと言えば、サッカーの井原選手がCMに出た時はドナー登録者が急増したということでした。
日本では売名行為とワルクチを言われたりして、慈善事業に取り組む有名人がまだまだ少ないと思います。寄付行為が税金対策になるなど、政府のバックアップも欲しいところですね。

もっと積極的に、財団を設立して難病の研究助成に活動しているのが、パーキンソン病であることを公表したマイケル・J・フォックスです。
日本では「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズでおなじみの俳優さんですが、1作目の時には軽く出来たギターの演奏が(病気であることを隠して撮影に臨んだ)シリーズ2作目の時はとても大変だったそうです。
自伝「ラッキーマン」は、パーキンソン病の発症を自覚したある朝の記述から始まっていました。
左手の小指が<狂ったように>震える様子をぼう然と見守るマイケル。まるで映画の1シーンのような描写から始まるこの本は全米のベストセラーになり、印税はすべてこの「マイケル・J・フォックスパーキンソン病リサーチ財団」に寄付されたそうです。
パーキンソン病の特効薬の研究に資金援助をするなど、その活動ぶりが伝えられたりしています。

ポール・ニューマンもアイルランドで病気の子どもたちのための施設を運営しているそうですね。
マスコミも、つまらないゴシップを追いかけるだけじゃなくて、こういう活動にももっとスポットを当てて応援してほしいと思います。
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2006年04月24日

円楽師匠、引退

「笑点」の司会を23年もつとめ、お茶の間にはすっかりおなじみの三遊亭円楽師匠が、22日引退を表明したそうです。
笑点40周年記念番組(放映は5月14日)の収録後の記者会見で
「もう落語をやるのは無理な気がする」
と述べ、高座で固有名詞を忘れたのを機に引退した桂文楽師匠に倣って現役引退の意向を示しました。
昨年10月に軽い脳梗塞で倒れて回復はしたものの、番組スタッフの名前を忘れてしまうなど体力の限界を感じてのことのようです。
「私の噺は28日にDVDが出るのでそれを聞いて下さい」
とも言ったそうです。最盛期のころの噺が出来ないもどかしさもですが、当時の自分の芸に対する自負も感じられ、いかにも円楽さんらしいとクスッとしてしまいました。

いつも人の良さそうな笑みを絶やさずハッピーな印象だった円楽さんですが、実は満身創痍。73歳の現在まで生き延びたことが奇跡に思えるような半生だったようです。
17歳の時に肺を患って医者から余命10年と告げられた。それで余生を楽しく過ごそうと寄席へ通ったのがきっかけで、落語界に入ることになったそうです。
医者がヤブだったのか、時期的に結核の特効薬が入手出来たから治ったのか、または落語の笑いがNK(ナチュラルキラー)細胞を活性化させたのか、10年で死ぬどころか病気のおかげで落語家となり以後55年も落語一筋となったわけです。
腎不全の持病があって56歳からは週3回の人工透析。
低血圧で80を切った時は2度も臨死体験をしたそうです。2度も練習したから、死ぬのは怖くなくなったとか。

臨死体験や人工透析への思いなどは是非、いつかたっぷりと聞かせてほしいと思います。
落語家らしいユーモアにくるみ、深刻な話も重くならないようにして話していただければ、どれほどに人工透析に苦しんでいる人たちの励みになることでしょう。
また、しゃべるのが仕事の落語家にとっては辛いことだと思いますが、義歯の噛み合わせが良くなくて、義歯を十数個も持っているそうです。義歯が合わないというのも頭痛がしたりして相当悩まされるもののようですね。
ところで、円楽師匠のCMを昔よく見たような気がして調べてみたら、1966年(昭和41年)まるか食品の15円ラーメン「味の大関」のCMキャラクターをつとめたということです(ぺヤングソースやきそば、の会社です)。ずいぶん古い話で恐縮ですが、円楽師匠はそんな昔から人気者だったのですね。

円楽師匠は1933年(昭和8年)、東京浅草の寺・易行院の息子として生まれ、55年(昭和30年)6代目三遊亭円生に入門。
62年(昭和37年)に真打昇進で5代目三遊亭円楽を襲名。
83年(昭和58年)からずっと笑点の司会をつとめて来ました。
仕事は順調で受賞歴も多く、お弟子さんの数は直弟子・孫弟子を合わせて約40人の大所帯。
やることはやった、と満足のいく引退かもしれませんね。
もっとも、現役の落語家は引退しても、仕事は山積みで忙しい余生になるのかもしれません。
この夏には、東京で開催される「大銀座落語祭」に出演して春風亭小朝師匠と対談を行うそうです。
これは小朝、笑福亭鶴瓶らの「六人の会」が主宰するイベントに招かれたもので、当初は落語での出演を要請されました。
円楽師匠側が固辞して対談形式に落ち着いたとのことです。
ペースダウンしてどうぞ長生きして下さい。
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2006年04月17日

張芸謀監督

08年に開かれる北京五輪の、開閉会式の演出責任者が張芸謀氏に決まったそうです。
張芸謀(Zhang Yimou)と言っても馴染みのない方が多いかもしれませんが、「中国の百恵ちゃん」と呼ばれた(この呼び名は失礼かも)コン・リーやチャン・ツィイーを世界的人気女優に育て上げた、現代中国の大御所の映画監督です。
私などは「紅いコーリャン」(1987年)をまず思い出しますが、娘たちは「HERO」(02年)のビデオを借りて見ていました。
「あの子を探して」「初恋のきた道」「LOVERS」、最近では高倉健主演の「単騎、千里を走る。」が話題になりました。

彼は1951年の生まれで、青春時代が文化大革命と重なる世代の人です。
1968年に初級中学校卒業のあと、農村や地方の紡績工場などに下放されて労働者の生活を送りました。
下放の辛さ苦しさは「大地の子」や「ワイルド・スワン」などでよく知られていると思います。
文化大革命は知識分子を批判した時代で、この時期に多くの文化人が迫害を受け、自己批判を拒絶して拷問死したり自殺した作家もいます。学校に行って勉強するなんて、唾棄すべきこととされていました。

余談ですが、私が直接聞いた話を少し。
北京にいたころ雇っていたコックさんは、張監督と同年輩の人でした。
私はとても興味があったので、ある程度慣れた頃に、文革の時は下放したのかと聞きました。
そしたら、長男だから行かなくてもよかったという答えでした。都会の子はみんな行かされたのかと思っていたら、長男は免除されたそうです。「家」との兼ね合いが中国らしいというか……。
コックさんと話していたらアーイーさん(だいぶ年下)も加わって来て、
「自分の友だちのお母さんは自己批判させられて死んだ」
と話してくれました。裏側に毛主席の写真があると知らないで新聞紙をかまどの焚き付けに使ったところ、厳しく批判され、飛び降り自殺したそうです。
文革の生々しい話を聞いて、ホントにあった事なんだ、とあらためて思いました。

閑話休題。
文革が終わって張芸謀氏が北京電影(映画)学院に入学したのが1978年、27歳。
成績は抜群でも年齢制限を5歳も上回っていたために入学を拒否されたら、文化庁の長官に直接手紙を書いて文革のために10年を無駄にしたと訴え、2ヶ月後入学を認めさせたそうです。
地方に10年もいながら幼い時からの夢を忘れずくじけなかった、根性の人ですね。
卒業後は順調で、1987年には「古井戸」(この映画を見たとき、私は緑豊かな日本に生まれた事を感謝しました)に主演、東京国際映画祭で最優秀主演男優賞を受賞。同じ年に「紅いコーリャン」で初監督、大ヒットしました。

このあと同じ女優(コン・リー)で「菊豆」などを撮り、コン・リーと愛人関係と言われたりしていました。コン・リーは香港の実業家と結婚したと思いますが、監督の私生活はヒミツ(未婚だろう、という説も)のようです。
ヒミツと言えば、ジャッキー・チェンには奥さんと男の子がいるそうですね。ファンの自殺を怖れて公表出来ないとか。ホントかしら。
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2006年04月11日

典子は、今

今朝のテレビでほんとに久しぶりに辻典子さん(現姓:白井さん)を見ました。
昔、映画で見た頃と変わらないゆったりとした笑顔に、この人の上に流れた豊かな時間をしみじみと思いました。
彼女には生まれつき両腕がありません。足の指を手の指と同じように使って何でもこなします。
足の指でパソコンのキーボードを叩く姿には思わず見とれましたが、彼女にしたら「このくらい簡単よ」と笑うかもしれません。
ホンダに手紙を書いて「両手がなくても運転出来る車」を開発してもらい、足だけで上手に運転するそうです。
自分の置かれた厳しい環境をごく自然に受け入れ、残された機能をフルに使って普通の人と同じように生活する。
両手はなくても仕事も子育てもこなし、屈託のない笑顔でたくさんの人を励まし、力づけてくれました。
障害者という目で彼女を見たらこちらが恥ずかしくなるような、そんな人です。

私の世代で薬害と言うとサリドマイドがまず浮かびます。
サリドマイドは旧西ドイツで開発された鎮痛・催眠に劇的な効果を持つ薬で、とくに働く女性にはとてもありがたい薬だったようです。
頭痛薬としてよく効き、ひどいつわりがウソのように楽になってよく眠れたとか。ところが妊娠中にこの薬を飲んだ女性から身体に奇形のある赤ちゃんが次々と生まれました。
当時、世界で数千人のサリドマイドベビーが生まれました。日本ではサリドマイドの催奇(形)性が明らかになってからも販売中止や回収の対策が遅れ、300人あまりの被害者が誕生。お母さんのおなかにいた典子さんもそのうちの一人です。
妊娠中に薬を飲むことの危険性が世間的に強く認識されるようになったのは、このサリドマイド禍がきっかけだったと思います。
なお、サリドマイドの薬効には捨てがたいものがあるようで、今も多発性骨髄腫(がんの一種。高齢者に多いそうです)の特効薬として使われている現実もあります。

私が結婚した年の秋、自分の誕生日の記念に繁華街に出て、一人でセミ・ドキュメンタリー映画「典子は、今」を見ました。
顔をさらしている有名なサリドマイド被害者として辻典子さんの名前は知っていたものの、この映画を選んだのはたまたま上映していたからという理由です。自分にその後障害児が授かるなんてつゆ思わず、当時の私にとって身体障害者の存在は完全に人ごとでした。
しかし実に衝撃を受けた映画でした。
生まれた赤ちゃんの肩にわずかに残っている指を、父親は医師に切り落としてくれと言います。そうしたら「事故で腕を切断したと説明出来るから」という理由。世間体のためにわが子の指を切り落とせと言うのです。奇形のある子どもの誕生を忌まわしく思っていたのでしょうか。
このことがあったからかどうか、両親は離婚して彼女は看護婦(当時)の母親に育てられます。必要に迫られもしたのでしょう、お母さんは彼女をあまり特別扱いせず、何でもどんどんやらせたようです。

映画の1シーンはまだ中学生ぐらいの時だったと思いますが、足の指を器用に使い、そろばんやミシンも使いこなす。ミシン糸を足の指にはさんで針の穴に通すシーンには息を呑んで見とれました。
手を洗うのと同じように石けんで足を洗い、包丁を使ってカレーも作っていました。それが悲壮感が漂わないごく自然な感じで、すごいな〜と文句なしに感動しました。
学校を卒業すると難関を突破して公務員試験に合格、熊本市役所に勤務します。
足でキャビネットを開けてファイルを取り出し、机に置いて広げる。びっくりするようなシーンでしたが、見慣れるとどうということはないのかもしれません。仕事上でもおそらく同僚や来客に迷惑をかけたり、引けを取るようなことはなかったと思います。

あとで夫にその映画の話をしたら、夫の仕事関係の人がたまたま彼女を知っていて、彼氏と一緒にスケート場で会ったらしいよと話してくれました。バランスは取りにくいでしょうがスケートも楽しめる、ちゃんと彼氏もいる、ごく普通の青春を楽しんでいるらしい(映画の後の)彼女の姿を想像して私も嬉しくなったものでした。
この春長年勤めた熊本市役所を退職したそうです。これからは講演やテレビ出演などで、いろんなお話を聞くことが出来ることでしょう。
いつまでも元気に長生きして、私たちにカツを入れてほしいと思います。
posted by dashi at 18:19| Comment(3) | TrackBack(0) | 気になる人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月30日

大平光代さんの再婚

「だからあなたも生きぬいて」で一世を風靡した弁護士の大平光代さん。
青少年の更生に力を入れて活動して来ましたが、ハンパじゃない経歴の彼女に感化されて生き方を修正した若者も少なくないのではないでしょうか。
きょうネットのニュースで、彼女がバレンタインデーに婚姻届を出して再婚していたと知り、よかったねと私まで嬉しくなりました。
相手は50代の弁護士で、尊敬する人だったそうです。お互い再婚同士ということですから、今度こそ末永く幸せになってほしいですね。

大平光代さんの経歴はもうすでに有名ですが、なかなか興味深いのでここにも書いてみたいと思います。
1965年、べつに貧困家庭でも崩壊家族でもない普通の家に生まれたようです。
中学生のころすさまじいいじめに遭い、ナイフで割腹自殺を図りました。
でもおなかを切っただけじゃ人間死ねないらしいですね。入院治療のあと学校に行ったら、前よりもっといじめられたということでした。
(ここらへんの事情はよくわかりませんね、今なら「学校なんか無理して行かんでもいい」って親にも言われそうですけどね。外聞を気にする家庭だったのかな?)

周囲のフォローが噛み合なかったのか、彼女は非行に走り、16歳でヤクザの親分と結婚。一児ももうけ、縁日の屋台でたこ焼き焼いたりしたそうです。
極道の妻となった娘に親はビビリ、何も言えずに怖がっている。親に対してはそんな姿を見ることで溜飲を下げたようです。
その後離婚して大阪・北新地のクラブでホステスしていました。
22歳のとき幼い頃からの知人に偶然会い、
「いつまでもこんなことしてちゃダメだ。いじめたヤツらに復讐しなさい」
と説得されて一念発起。知人の言う「一番いい復讐」としてヤツらより上に行く決心をしたようです。

中学校しか出てないので、学歴を問わない資格ということでまず宅建(宅地建物取引主任)を狙いました。
中学校は出ていると言っても、彼女には小学生並みの学力しかなかったようです。足し算や掛け算もろくに出来ず、小学生用のドリルから勉強を始めました。
宅建は不動産の仲介や売買の時に必要とされる資格ですから、契約書などの漢字がたくさん出て来る。
その漢字の意味も読み方もほとんどわからないところからスタートしたそうです。

つい机から離れて逃げたくなるので、足をガムテープで椅子に縛り付けて勉強したと言います。
養父となって励まし続けた知人は恩人だけど、それに見事応えた彼女はエライ。
根深い復讐心をみごとに昇華させた、絶好の実例ですね。昔のいじめの復讐だと言って犯罪に走るようなかつてのいじめられっ子に、ぜひ見習ってほしいものです。

宅建合格のあと、また励まされて今度は司法書士を狙います。一度は落ちたけどこれにも見事合格。
そこで満足せず、今度は29歳で司法試験に一発合格しました。
眠っている8時間を除いてずっと受験勉強。食事や入浴時にもテープで法律の条文を聞いていたそうです。
受験勉強で働く時間(収入)はないから、安売りの納豆を買って来て3食食べていたそうです。(栄養はバッチリですね)
司法試験は中卒の人間にも受験資格があり、まったく独学でも狙える資格なのだと世間に知らしめた功績も大きいと思います。

今も彼女の身体には極道の妻だった時代の刺青が残り、割腹自殺を図った後遺症として内蔵に問題があるので、あまり長生きは出来ないだろうということです。
良き伴侶を得て思う存分働き、心残りのない幸せな人生を送ってほしいと願っています。


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2006年03月28日

プロの仕事

中世のペストや、結核やスペイン風邪の再来なのか、「アウトブレイク」という映画で世を震撼させたデボラ出血熱。
世界中に広がって万単位の死者が出るのかなと私もひそかに恐れていたSARS、今は鳥インフルエンザ。
世界的な流行にならないで済んでいる裏には、こういう人たちの超人的な活躍、プロの仕事があったのだと今日初めて知りました。
WHOメディカルオフィサー、進藤奈邦子さん。
彼女の仕事は、鳥インフルエンザの感染爆発・バンデミックを食い止めること。
2月28日のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で放映されたそうなので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。私はきょう夕方、高校野球が雨のため中止でたまたま番組変更の再放送で見ることが出来ました。(関西地方の雨に感謝です)

いい機会なのでWHOについてざっとおさらい。
WHOはWorld Health Organizationの略。
かつては世界保健機構と呼ばれ(私も学校ではそう習い)ましたが、現在は世界保健機関というのが正式名称だそうです。
病気の撲滅のための研究、適正な医療・医薬品の普及を始めとした様々な活動を続ける国連の専門機関。
1948年設立、本部はジュネーブで、設立日の4月7日は世界保健デー。現在の加盟国は192カ国ということです。

1月、トルコで鳥インフルエンザ患者が集団発生したという知らせに、進藤さんはすぐ次の日の飛行機で現地に向かいます。
人から人へと感染するウィルスに変異したかと緊張。
女手ひとつで二人の子どもを育てているお母さんでもあるので、同僚に子どもの世話を託し、学校に行っている子どもたちには電話で「大事なお仕事だから行かなくちゃ」と穏やかに話します。
(子どもたちは11歳と8歳ということなので、もっと小さい時よりはだいぶ仕事がやりやすくなったんじゃないかなと思いました。)
一年の3分の1は海外に出張で、一回行くと長いということでしたが、子どもたちとは出張先からもこまめに電話してコンタクトをとっている様子でした。
「子どもたちは宝物がぎっしり詰まった宝石箱」だそうで、仕事の大きなエネルギー源でもあるようです。

ウィルスを病院の外に出さないこと、その病院の中だけで感染をくい止めるのが至上命題。
本人の言葉を使えば「小さいうちに握りつぶす、とにかく広がらないようにすることが一番大事」。
当の病院は(突然やって来た外国人チームを)むしろ迷惑がっている様子でしたが根気よく説得して、患者の情報を入手。
患者は家族や親戚ばかりで固まって住んでいて全員鳥との接触があると確認、他人に感染して広がったというのではないとわかりました。患者はそれ以上増えず、感染爆発を阻止するのに成功したようです。
この功績ははかり知れないものがあると思いました。
隔離病棟に入る前に着替える姿が、いかに危険な仕事であるか一目瞭然。
防護服にマスク、目からの感染を防ぐためにゴーグルもつけた完全武装です。ほんとは宇宙服みたいなすっぽり型がいいのでしょうが、国によっては入手出来ないのかもしれないなと思いました。

危険地域に行く時は「もう子どもに会えないかもしれない」と覚悟を決めるそうです。
子どもたちにも自分がいなくなってもちゃんと生きていけるように、
「怠けてちゃダメ、人間働き者じゃないと」
「自分のことは自分でしなさい」
とことあるごとに言い聞かせているそうです。
子どもたちももう少し大きくなったら、お母さんの仕事を誇りに思い、誰よりも理解し応援してくれることでしょう。

どうしてそんな危険な仕事を続けられるのか、という問いに、
「胸の中に何かあるんですよね、それが『行け、やれ』って言うんですよ」
とはにかんだように答える姿がとても印象的でした。
脳腫瘍のため若くして亡くなった弟さんから託された医師の仕事。胆の据わり方が違うなあとうならされた人でした。
これからもお元気で人類を救って下さいと冗談抜きでお願いしたいです。

(番組を見た記憶だけで書きましたが、もしニュアンスが違ってたりするようでしたらお詫びします。)
posted by dashi at 23:32| Comment(4) | TrackBack(0) | 気になる人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月16日

弘山晴美、スルツカヤ

日曜日の名古屋国際女子マラソンで悲願の初優勝を果たした弘山晴美選手は1968年生まれの37歳。
一時は58秒300mという圧倒的な差をつけられながらも、ゴール1キロ手前で渋井陽子選手を抜き去り、そのままゴール。夫でコーチの資生堂ヘッドコーチ弘山勉さんと抱き合いうれし涙にくれました。
かつては1500m、3000m、5000mの3種目で同時に日本記録を持ち、「トラックの女王」と呼ばれていました。
女子陸上選手としてはただ一人、アトランタ(5000m)、シドニー・アテネ(10000m)と3回のオリンピックに出場しています。年齢とともに記録を伸ばして来た息の長い選手です。

本格的にマラソンを始めたのは30過ぎていたそうで、トラックで鍛えたスピードはあるものの故障も多く、2位は3回もありながら優勝経験がなくて引退するには未練が残っていたようです。
北京のぺの字も考えてないそうですから、もう次のオリンピックは目指さず、長くお預けだったらしいママさんランナーの道を選ぶのかもしれませんね。
外国には一線で活躍するママさん選手もいますが、日本では何か悲壮感が漂い、一流選手でいるためにはすべてを犠牲にしているような印象を受けますね。私生活ももっと大事にしてほしいと思います。
37歳で悲願を果たした根性もたいしたものですが、日本の女子マラソン界の層の厚さを改めて実感したことでした。

ところで既婚と言えば、荒川静香の金メダルですっかりかすんでしまったけど、転倒しなければおそらく優勝だったロシアのイリーナ・スルツカヤも1999年にトレーナーと結婚した奥様選手です。
こちらは自己免疫疾患という難病と闘い、毎日大量の薬を飲んでいるそうです。一時は歩けないくらいひどい状態だったとか。
あの赤いほっぺの童顔なスルツカヤにそんな苦労があるとはと驚きます。支えになってくれる夫の存在は、弘山選手同様、大きいかもしれませんね。

余談ですが、今度のトリノでは転倒する選手が続出しましたね。
派手に転んでもちゃんと演技を続行して銀メダルを取った中国ペアはすごかった。
それにしても、あれだけ転ぶというのは、リンクの氷の状態に問題があったんじゃないのかと思いましたが、そういう話は聞きませんでした。
万全の状態のリンクで滑りたかっただろうなと同情してしまった私でした。
posted by dashi at 00:26| Comment(4) | TrackBack(0) | 気になる人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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