2008年03月22日

感動を「与える」

ここ数年のことだと思いますが、一部のスポーツ選手の発言で私にはとても気になる言い回しがあります。「感動を与えたい」という言い方。
感動って、人に「与える」ものでしょうか?
その選手のプレーを見て観客が感動するのは、それはもちろん素晴らしいことだけど、「さあ感動してね」と言われてするものではないと思います。
人に感動してもらうためだけに競技をするのではないでしょう。
選手は自分の目的(達成感、金メダル、優勝賞金や名声、身分の安定)のために競技に臨み、結果的にそのプレーがその選手の生まれながらの天分やたゆみない努力を思わせ、見ている人がすごいなーとため息をつく。
時には天候や怪我など思いがけない要素で息を呑むドラマが生まれたりします。
感動というのは、自然発生的に副次的に生まれてくるはずのものではないでしょうか。
もっと言えば、感動を「与える」というのはいわゆる「上から目線」ってやつで、かなり「不遜」な言い方だと思います。

私がとりわけ違和感を持つのは、高校野球の出場選手の中にこの言葉をよく聞くことです。
きょうは春の高校野球(センバツ)の開会式でしたが、朝日新聞夕刊によれば、選手宣誓で「日本の高校野球の代表として感動を与え…」と語ったそうです。
たしか以前にも「感動を与えたい」と胸を張っていた高校生がいました。
学校関係者も新聞社も、この言い方が気にならないんでしょうか。
感動するかどうかは、見ている人が決めること。何も「与えて」もらうことではない、と私は言いたいです。
感動した、と言ってもらえたらそこで初めて素直に喜べばいい。自分のプレーは当然「感動に値するから、みんなを感動させてあげるよ」という態度、どうかと思います。
感動してもらえるようなプレーをしたい、と言うべきではないでしょうか。

その点、「自分で自分をほめたい」と言った有森選手は、立派だったと思います。
本来、スポーツ選手は自分のためにトレーニングに励んでいるはず。そこのところをわきまえてほしいと思います。
書いていて思いだしましたが、スポーツ選手だけじゃなくて、歌手などにもこういうことを臆面もなく言う人がいますね。「与える」という言葉のニュアンスがだいぶユルくなっているのかもしれません。
「さあみんなワタシを注目してね。うーんと感動させてあげるからね!」と胸の中で叫ぶのは、いくらでもやってもらって結構。頭の中でどんなに不遜なことを考えていようと、それは個人の自由。
でも感動を「与えたい」などと僭越な発言は遠慮してほしいと思います。
posted by dashi at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。