2006年12月31日

さらば2006年

気が付けばもう大晦日の夜。今年はやけに過ぎるのが早く、あっという間の一年でした。
夕方、息子を運動のため散歩に連れ出し、歩くのが速い息子に大股で必死に着いて歩きながら、
「ねえ、今年はどんな年だった? 楽しかったかな〜。卒業後の進路が見えてよかったね」
返事がないのはわかっているものの、語りかけていた私です。
今年は初めての現場実習に2回出て、学校卒業後のシュミレーションを体験することが出来ました。最初の時は大変でしたが2回めは問題なく順調に行って、本人も自信がついたように思えました。
療育センターのあと入学した養護学校で小学部からずっと過ごしています。叱られることのまずない温かい校風で、文字通りの温室育ちですから大いに不安はありました。来年度にも2回実習に出てから卒業となりますが、そつなくこなしてくれると信じたい気分です。

上の娘にとって大きかったのは、車の免許を取ったこと。そして転職して、パートながら満足して働ける職場にも恵まれました。これはとても自信になったようで、独り立ちの前段階なのか、私に対してもやたら反抗的。遅れて来た思春期という感じで近ごろはケンカばかりです。
友人にこぼすと、「そういう時期もないといけないのよ」と慰められました。はいはい「親殺し」でしょ、わかっちゃいるんだけどサ。
下の娘はマイペースでわが道を行っています。昨日は息子と3人で久しぶりに出かけたら、何を思ったか、安楽亭(行ったことないけど、息子は気に入りそうと話していたら)の焼き肉ランチをおごってくれました。
3人の子どもが無事にそれぞれ成長していて、親としてはまあまあだったかな、と自己満足。

今年の漢字が「命」と報道されましたが、私にとっても命についていろいろと考えさせられる年となりました。
仲谷昇さんのひと月後に岸田今日子さんが亡くなったのには、(ただの偶然と笑われそうですが)別れたと言っても子をなした夫婦なんだなあと感動してしまいました。
市川昭介さんや宮川泰さん、ポール・モーリア氏など広く親しまれた作曲家や、橋リューさん、灰谷健次郎さんも亡くなりましたね。丹波哲郎さんには出て来てあの世のリポートをしてほしい。
この前年下の友人が、今年は知り合いの葬儀が多かったと話していました。火葬場に行ったあとは数日落ち込むそうで、「やっぱり、ショックですよね〜」とため息。
私も10月に父が急逝して初めての骨拾い、ひと月ぐらい調子が悪かったと返事したことでした。
今年は姪が二人出産したので、世代交代を実感することにもなりました。

今年は皇室に男子誕生という大ニュースもあり、「男の子ってこれほど歓迎されるんだ〜」と驚きました。女の子しか生めないから離縁、という時代ではないでしょうが、そんな時代もあったことを彷彿とさせる出来事でした。
それにしても、反論や名誉毀損で訴えられる心配がない(?)のをいいことに、最近の週刊誌は皇太子妃への誹謗中傷書き放題。ずいぶん失礼な、事実誤認の記事も見受けられます。
宮内庁が秘密主義に固まらないのはいいことかもしれないけど、問題のある記事に対してはもっと毅然とした態度で抗議してほしいと思っています。それに秘密保持厳守の契約だと思うので、内情を洩らす職員はちゃんと処分してほしいです。
皇室は別格として、世の中は女性の地位向上はめざましく、仕事を持つお母さんも珍しくなくなりました。父親の権威はなくなる一方ですね。お父さんが怖くないと子育てにメリハリが効かなそうですが、もう古い考えかもしれません。

仕事を持つお母さんと言えば、復帰して紅白にまで出た森昌子の離婚騒ぎは印象に残りました。復帰は大歓迎を受けているようだし、頭抜けた特技があると強いですね。
それにしても、さっき紅白でのコメントでは、辛い時に支えてくれた母と子どもたち……という発言があり、夫はアンタを苦しめた「だけ」の存在かい? って言いたくなりました。3人の子どもがいい子たちなら、そのDNAの半分は夫のもののはず。ぐっと抑えて、有賀さつきみたいに「いい子たちをを授けてくれた夫に感謝している」ぐらい言ったらカッコよかったのに。
私は別に森進一のファンじゃないけど、どんな気持ちで「おふくろさん」を歌ってるのかなあと同情してしまいました。彼の境遇にも気の毒なところがありますからね。(この項敬称略)

今年は知事の逮捕が相次ぎましたが、東京都知事の庶民とかけ離れた金銭感覚、公私混同ぶりもあきれたものでした。これほどの問題を抱えた人でも、次の選挙ではまた選ばれるんじゃないでしょうか。野党が絶好の機会に乗れるほどに足元がしっかりしてないんですよね。
選挙民も、せっかくの直接選挙なのに、権利を行使して世の中良くしようという気概に欠けます。投票率が30%台なんて恥ずかしくて、普通選挙制度を敷いた先人に聞かせられないと思います。あなた任せの人が多すぎて、いいようにやられているのに、怒った学生がデモをすることもない。なんて御しやすい国民なんでしょう。
首相は首相で、問題が表面化した人に引導を渡すことも出来ない。国民の感情とかけ離れすぎの、内輪への気配り優先でどうする。指導力を発揮してほしいです。それに、小泉サンがぶっ壊して断ち切ろうとしたものを、せっせと拾い集めているような不愉快さを覚えます。昔の自民党に逆戻り? 

2006年は、ブログのおかげで思いがけない交流を楽しめて、少しは頭も使い、充実させることの出来た年でした。言いたいことを書きなぐることで発散できて、ストレスが溜らないのも有り難かったです。
この個人的な道楽にお付き合い下さった皆様に厚くお礼を申し上げます。有り難うございました。
今後とも引き続き宜しくお願い致します。
来る2007年が皆様にとって素晴らしい年になりますように。
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2006年12月30日

スヌーピーの生みの親

「ミネソタ州」というのが会話の中に出て来て、ミネソタ州というのはいったいアメリカのどのあたりだろうと検索していたら、おもしろいサイトを見つけました。
http://uk.geocities.com/misuzum/rochester/LookingForLucy.htm
ミネソタ州はスヌーピーの作者の故郷で、州都ミネアポリスには何かとスヌーピー関連のものが多いそうです。ここで紹介してあるのは7月4日のアメリカ独立記念日の時期に、ミネアポリスで開催された「Looking for Lucy(ルーシーを探して)」のルーシー人形の数々。
スヌーピーじゃなくてもこういう出し物が成立するあたり、Peanutsの人気の幅広さを感じます。

世界中2000の雑誌に掲載され、親しまれているPeanuts。日本では主人公のチャーリー・ブラウンより飼い犬のスヌーピーの方が有名で、マンガのタイトルも「スヌーピー」だと思い込んでいる人が多いそうです。私も初めの頃「ピーナッツって、何?」と不思議に思ったものでした。
ピーナッツというのは、この漫画に注目し、売り込んでくれたエージェントが勝手につけたタイトルだそうです。peanutsには「はした金、つまらない物」という意味もあり、作者は不満に思っていたようですね。当時はまだ売れない漫画家だったから、強く反対できなかったのかもしれません。

スヌーピーの生みの親チャールズ・M・シュルツ氏は、1922年11月、貧しいドイツ系移民の父とノルウエー系移民の母の間に生まれた一人息子です。(私としては、ルーシーやサリーのような女きょうだいがいるのかと思っていたので、ちょっと意外でした)
ちなみにこの1922年というのは、日本では大正11年。エジプトがイギリスからの独立を宣言したり、日本共産党が極秘裏に結成されたり、オスマントルコが滅亡したり、ソビエト連邦が成立したりした年です。
アインシュタインが初来日して講演して回り、大人気を博すということもありました。
この年に生まれた人は、水木しげる、山下清、瀬戸内晴美(寂聴)、ジュディ・ガーランドに丹波哲郎、中内功、鶴見俊輔など。物故は大隈重信、森鴎外。
また江崎(現:江崎グリコ)が創立され「一粒300m」のグリコが発売(今は、何のことか判らない人も多そうですね)。西武鉄道、目黒蒲田電鉄(現:東京急行)もこの年に創立されたそうです。

父は理髪師で、自分の店を持ちましたが経営は苦しかったようです。でも新聞の漫画に夢中になって息子に大きな影響を与え、息子が高校3年から「アート・インストラクション・スクール」という通信制の学校に入った時も、学費を工面して応援してくれたそうです。
母とともに自分を深く愛してくれた父親の存在は、チャーリー・ブラウンの父として(姿は見せませんが)投影されているようですね。
シュルツ氏は小さい時から絵の才能に恵まれていたほか、内気ながら勉強は良くできて、小学校時代に1年飛び級したこともあるそうです。読書量はすごくて、彼の豊かな知性はほとんど独学で培われたとか。
またスポーツも大好きで、アマチュアゴルファーになる夢も持っていたそうですから、チャーリー・ブラウンとはだいぶ違う子どもだったようですね。

彼は大学には行かず、高校を卒業するとアート・インストラクション・スクールでの修行に本腰を入れ、雑誌への漫画投稿を続けます。地元で少しは売れていたものの、満足できるような程度ではありませんでした。
21歳のころ母が亡くなり、その後すぐ徴兵されてヨーロッパの部隊に所属(第二次世界大戦)しました。
軍隊での経験は内気な彼を負けず嫌いな性格に変えたそうです。これにはドイツ移民の息子という境遇(姓でわかりそうですね)は影響したんじゃないかと私には思えましたが、今日たまたま読んでいた「スヌーピーの処世哲学」(廣淵升彦著、海竜社)という本にこの件について書いてありました。
彼は父の祖国ドイツと戦うためにフランスに赴任していたのだそうです(終戦間際だったからか戦闘経験はない)。いろいろと思うところがあったでしょうね。

復員後はアート・インストラクション・スクールに就職して働きながら、積極的に投稿を続けます。
職場で恋愛したものの宗教の違いから反対にあってうまくいかず、1951年、同僚の妹と結婚しました。
(Peanutsの人気が急上昇する時期と重なる結婚生活のようですが、この人とは72年に性格の不一致で別れ、再婚したそうです)
失恋の体験はチャーリー・ブラウンの、片想いの赤毛の女の子に投影されているということです。
なおチャーリー・ブラウンというのは職場の同僚だった人の名前だそうですし、スパイクという犬も飼っていたことがあるそうです。彼が楽しみながら漫画を描いていたことを伺わせるエピソードだと思います。
生みの親は2000年に亡くなりましたが、Peanutsは不滅です。


※ 先に書いた「スヌーピーの処世哲学」著者の廣淵升彦氏は「スヌーピー学(スヌーピー・オロジー)の研究者」と紹介されている方で、「スヌーピーたちのアメリカ」(私も娘と愛読しました)以来、スヌーピー関係の著書や講演、大学の講義でPeanutsの素晴らしさを語りつづけていらっしゃいます。ブログはこちら:http://hirobuchi.com
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明日、書き直します

きょう書いていた文章に確認したいことがあり、明日(もう、今日ですが)満を期して書き直すことにします。どうも失礼しました。
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2006年12月28日

小さい旅

きょうは朝から大掃除の仕上げ、ゴミを捨ててすっきりしたところで、息子と二人家を出ました。暖かくてお天気も良く恰好の行楽日和だけど半日だからそう遠出は出来ないと考え、電車を乗り継いで鎌倉へ行くことにしました。
着いてみると、こんな時期でも観光客が多く、けっこうな人出でした。
息子にとって鎌倉で向かうところは鶴岡八幡宮です。何度か来ているので道はよくわかっていて、どんどん歩いて行きます。私はそのあとを見失わないように着いて行くだけ。
目的地に一目散に向かう息子と一緒では、せっかくの小町通をぶらぶらするような楽しみ方は出来なくて、早足で通り過ぎながら横目で見るだけです。

八幡宮で、そばを歩いていた家族連れが「お正月はすごいんだよ〜」と話していました。初詣は何万という人出で賑わうのでしょうね。初詣客に備えて石段の両側に仮設の柵でも設置するのでしょうか、青竹を二本渡す工事をしていました。鳥居付近の石畳も一つ一つ雑巾で拭いていました。
破魔矢やおみくじの準備も整って、新年を迎える準備はだいぶ進んでいるようでした。
年明けに息子を連れて初詣(人ごみ)は無理だから、一足先に参拝して来年もよろしくお願いします、と手を合わせました。冬休みになってまもなく、息子の散歩のお供で近くの神社をはしごした時も参拝したので、そんなにあちこちでお願いしてもいいものかと迷いながら、いいかげんなことをやっています。

鶴岡八幡宮と言えば、石段左脇にある大銀杏は有名です。化粧直しをしたという最新ニュースがありました。
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxidec542/
以前行った時は野生のリスが走り回っていた元気な樹でしたが、今日見たら台風で折れた枝をだいぶ切り詰めてあって驚きました。でも銀杏は再生力の強い樹ですから、またすぐたくさんの枝が出ていました。
元気な樹のころの画像がありましたのでご覧下さい。
http://www.geocities.jp/y_tadashi_jp/turuokahachiman/turuokahachiman.htm
樹齢1000年、県指定の重要記念物、幹の周り7m高さ30m。銀杏の古木に多い気根が多数垂れ下がっていますが、これは霊験あらたかと歓迎されるもののようです。
源実朝を殺した公暁がこの銀杏の陰に隠れていたことから、「隠れ銀杏」とも呼ばれています。

鶴岡八幡宮を出て段葛を通り、豊島屋本店で鳩サブレを買って(息子の好物。嬉しそうにずっと持っていました)、そのまま帰るのは早すぎるので江の電に乗ることにしました。
電車が出たばかりだったので、待っている間に二人で名物(?)の玄米チーズあんぱんというのを食べてみました。バターや卵を使っていないそうなので、アレルギーのある人には歓迎される甘味だろうと思います。小ぶりで割高ですが、あっさりしていて味は良かったです。
小物のほか江の電サブレやケーキなども売ってあって、江の電はなかなかあやかり商売熱心だと思いました。シーズンには修学旅行客が買い占めるのかもしれませんね。

江の電にはずいぶん久しぶりに乗りましたが、息子はどうも覚えていた様子で、懐かしそうに外を見ていました。途中で海が見えましたが、灰色で波が高く荒れて、いかにも冬の海。
途中で対向車輛を待ち合わせたので、江の電って単線なんだと思い出しました。ほかでも数分止まったりしましたし、急いでいる人には酷な路線かもしれません。
終点の藤沢まで乗って、息子の後を追って歩いたらJRの駅に着きました。どうして道を知ってるんだろうと不思議。逆向きに昔乗った記憶が残っているのかもしれません、さすが自閉症。
帰りはもう真っ暗で、とても寒くなりました。帰宅してさっさとご飯を食べたら、大急ぎで自分の部屋にこもってしまった息子。外の刺激に疲れて早く一人になりたかったのかも、と思いました。
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2006年12月27日

外国人研修制度

これが現代の法治国家で起こったこととは信じ難い。同じ日本人として全く恥ずかしく、腹が立つ事件です。
04年に日本の農業技術を学ぶために来日した外国人研修生が、実習先の会社の役員の息子が経営する会社や自宅で単純労働や家事をさせられた。そして05年から逃げ出すまでの1年3ヶ月の間、役員から60回以上性的暴行を受けたと主張しています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061225-00000316-yom-soci
今までもこういうことは度々あったらしいですが、今回は支援する人がいたのでしょう。受け入れ先企業と財団法人「国際研修協力機構(JITCO)」を相手取り、損害賠償など3,780万円の支払いを求めて提訴したそうです。似たような提訴がこれから続くかもしれませんね。
JITCOは「開発途上国の人材育成に寄与」するための真面目な組織のようです。研修制度をまさかこんな形で悪用されるとは思いもしなかったのではないでしょうか。

8月19日付でここでも書きましたが、8月18日には千葉県木更津市の養豚場で、帰国を迫られた中国人研修生が殺傷事件を起こしました。きつくて臭い長時間の重労働に対してあまりの低賃金でやる気を無くし、仕事をボイコットした研修生をクビにしようとして恨まれたものです。
この事件について、こちらのサイトに解説がありました。
http://www.sankei.co.jp/chiho/chiba/061213/chb061213000.htm
殺傷事件を起こしたのはもちろん許せないことですが、そこまで研修生を追いつめた事情には同情の余地があると思います。「月10万で雇える」と誘い、「残業代は別口座で」と入れ知恵するなど県農業協会は悪質です。まるで人買いを斡旋してるみたいですね。

日本の技術を身につけて今後の仕事に生かしたいと、青雲の志を持って来日した(そんな人ばかりでもないでしょうが……)外国人に対して、いったい、なんという仕打ちでしょうか。
青雲の志は持ってないとしても、真面目に働いて稼ごうとしている人たちのはずです。
ところが受け入れ先は経済格差につけ込んでやりたい放題。タダみたいな給料で長時間働かせ、逃げ出さないようにパスポートや給料を預かる例も報道されました。労働基準法も真っ青の、安い労働力として奴隷のような扱い。現代の女工哀史ですね。
貧しい国の人に対する、救い難い歪んだ優越感がさせることでしょう。
今度の提訴に対して、雇い主側は「合意の上で買春しただけだ」と主張するかもしれませんね。でも万が一暴行ではないにしても、雇用側の優位性に立って社会的弱者の立場につけ込んだ、卑劣な行動であることは疑いのないところです。

大半の研修生は渡航費用などを借金して出稼ぎに来ているのが実情でしょうから、思ったほどの稼ぎがないと脱走して不法残留となるのも(いいことではないですが)無理もない話です。労働災害に対して補償を受けられないとか、犯罪の引き金になるといった影響も出て来るでしょう。
日本という国に対する印象も、ずいぶんと悪くなりそうです。日本人が嫌う職場だからと安易に経済弱者をあてがうといったやり方は、人道上も許されるものではないでしょう。
農業の後継者がいなくてやむを得ず研修生を受け入れていると言うのなら、それはその場しのぎに過ぎず、長期的に見て何の解決にもならない。農政を根本的に見直すべきではないのですか。
河野太郎法務副大臣(当時)が「いかさまそのもの」と断じたという、外国人研修制度を、もう放置していてはならないと思います。
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2006年12月26日

視覚効果

きょう雨の中をディズニーランドに出かけました。
私は次女がベビーカーに乗っていたころに、夫(当時)の両親に連れて行ってもらったきり。息子は初めてです。
冬休みですっごく混んでるよと脅かされて、それでもこのお天気だから空いてるだろうと楽観して行きましたが、まあよくあれだけの人が集まるもんです。晴れてたら倍かもしれません。
昼食は時間をずらして2時半頃摂りましたが、それでも行列でした。雨で濡れた上にとても寒かったので、暖かいレストランでゆっくり休みたかったのですが、並んでいる間も凍えそうでした。一緒に出かけた仲間は立ったまま食べたと言ってました。

初めてなのに勝手知ったるという感じでどんどん歩く息子を追いかけて、いくつか乗りました。
晴れた日ならきっとすごい行列なのでしょうが、ジェットコースタータイプなど屋外のものはほとんど待たずに乗ることが出来、息子は満足そうでした。
でもスモールワールドではきれいなロボット(?)が踊って美しい音楽が流れても、耳を塞いで頭を下げたりします。激しい動きのあるスリリングなものが好きなようで、こういうところはやはり男かもしれないと思いました。
もう当分来ることはないだろうし、せっかくだからとあれこれ乗りましたが、その代わりリュックの中の着替えまでぐっしょりになりました。

集合時間までわずかになって、最後に入ったのがスター・ツアーズです。
スター・ウォーズのマニアにとっては垂涎の的かもしれませんね。ウチでは娘たちが以前ビデオやDVDを買って見ていたので、私もスターウォーズには断片的に親しみがあり、なんだか懐かしいところでした。
ここは25分待ちでしたが、屋内なので暖かくて行列も苦になりませんでした。それに周囲にちょこちょこ小道具があって待ち時間を楽しめるように工夫してありますね。
けっこうもったいぶった印象のこのスター・ツアーズ、小さい子どもや「なりきり」が好きな人には、ほんものの宇宙旅行みたいで大受けするでしょうね。

私が感心したのは「視覚効果の素晴らしさ」でした。
あれがどういう仕組みか見たわけではありませんが、もちろん宇宙に飛び出すわけではない。たぶん、客が席についた箱(コンテナ?)ごと揺さぶっているだけのものだと思います。
それが、前の画面の映像と連動しているから、ちょうど本当に宇宙船にぶつかりそうになって危機一髪で逃れたり、クレバスみたいなところを急降下するような「錯覚」に陥ることが出来るわけですよね。
本家本元のスターウォーズのCGも素晴らしいですが、ここのは大画面で、私たちは最前列だったので迫力も満点でした。
松下電器産業の提供らしいですが、さもありなんと思いました。

ところでこの「視覚効果」、業界用語ではVFXと呼びます。
Visual Effects(ビジュアル・エフェクツ)の略で、映画などで現実にはあり得ない画面を作る技術。
(CGなどを使わない)特殊効果(Special Effects:SFX)とVFXの区別は明確に定義されていないそうで、二つの用語が同義で使われたり、VFXがSFXの一部とされることもあるということです。
なおVisual Effectsの略語がなぜVFXになるかと言うと、SFX同様、FXがeffectsの発音に似ているから使われているそうです。

アカデミー賞には視覚効果賞というのがありますが、スター・ウォーズは1977年に受賞しています。
79年がエイリアン、82年E.T.。まだここらへんは可愛い気がしますが、フォレスト・ガンプ/一期一会(94年)で主人公がケネディ大統領と握手したり、マトリックス(99年)のアクションなんかでは、「ここまでやるんか」と驚いてしまいました。
CGも最近のはとてもきれいになりました、視覚効果の進化は著しいです。いずれ好みの女優さんを違和感なく自由に「作れる」ようになるのでしょうね。
posted by dashi at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 興味津々

2006年12月25日

死刑執行

25日に4人の死刑囚に対し刑が執行されたというニュース。
4人も一度に執行されたのは平成9年以来ということで、論議を呼んでいるようです。
日本弁護士連合会は死刑執行に長く反対し続けていて、今回もすぐ会長声明を発表しています。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/061225.html
それによれば、国連人権委員会は毎年、死刑制度が残っている国に対して、死刑執行を停止するよう呼びかけているらしいですね。

前任の法務相が、浄土真宗・大谷派門徒としての宗教観などを理由に執行命令にサインするのを拒んでいたそうで、今回は1年3ヶ月ぶりの執行になるということです。
マスコミの報道は概して、執行命令書にサインした法相に対して批判的な印象を受けます。ことに毎日新聞などは、国会議員有志、日本弁護士連合会やアムネスティの抗議を伝えるという形で、間接的に非難しているように私には読めます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061225-00000050-mai-soci

私個人としては、中立の立場で報道するべきではないのかと思いますが、まあ、それは社の方針もあるでしょうからやむを得ないのでしょう。
それにしても、死刑執行があるたびに法務相がサインしたことを批判されるのは、私の記憶にある範囲では毎回のことだと思います。時には署名した法相が血も涙もない冷酷な人のような書き方があったことも覚えています。マスコミの受けを良くしたいなら、なんだかんだ言って執行命令書にサインするのを拒みさえすればいいんじゃないかと思えます。

死刑を執行してしまえば、それが冤罪であった場合に取り返しがつかない。
死刑は公然と行われる殺人で、人道上容認出来ない。
死刑執行したからといって何も解決せず、せいぜい被害者遺族の溜飲が下がる程度のこと。遺族の中にすら死刑に反対する人もいる。
そういう意見があることも承知していますし、一理あると思います。
スーザン・サランドンがアカデミー主演女優賞を受賞した「デッドマン・ウォーキング」も死刑制度を強く問題視した映画でした。

でも、裁判所が死刑の判決を下した事例について、その執行を命令するのは、法相の重要な任務の一つではないのですか。三権が分立していてお互い対等ならば、執行を拒否するのは越権行為なのではないか、法相はただ職務に忠実なだけではないのかと私は考えますが、短絡過ぎるでしょうか。
冤罪が疑われる時は再審請求も出来るわけだし、どこかの国のように死刑判決が出て即執行、という前近代的なことをやっているわけではないと思うのです。
死刑制度を廃止したいなら、命令書にサインする行為を責めるのではなくて、廃止推進の機運に持って行くべく地道かつ迅速な積み重ねが必要なのではないかと考えます。
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2006年12月24日

やり直し

つい最近、息子関係の知り合いの結婚式に参列しました。息子宛の招待状だったので息子の出席で私は付き添い。新婦がクリスチャンだから(新郎の方は不明)か、教会での式でした。
知的障害を伴う自閉症の息子は、残念ながら自分の立場が理解出来ません。ベールのかかった横顔が誰かすらも、分からなかったのではないかと思いました。
息子は連れて行っても喜ぶわけじゃないのは重々承知で私が参列したのには理由があります。
この新婦は20代に結婚と離婚を経験した人で、離婚した時期がどうも私と同じ頃らしいのです。離婚後も姓が変わらなかったので知らなかったのですが、あとで人に聞きました。

どんな事情があったのかわかりませんが、子どももいないので結婚前と同じ職場でずっと働き続けています。バリバリ仕事をしている人だから全く余計なお世話なのですが、彼女と会う度に私はひそかにその将来を気がかりに思っていました。
だから、新しい伴侶を得て幸せな結婚をする彼女を、素直に祝福したいと思ったのです。
式で初めて見た新郎は優しそうな落ち着いた人で、仕事も福祉関係の堅い職場。今度こそ彼女は幸せな家庭を持てるだろうととても嬉しく思いました。

みんながそうだとは言いませんが、第三者の目を通して相手を選ぶお見合いは別として、まだ未熟な若い時に恋愛で結婚相手を選ぶ人が大多数だと思います。
自分のことを考えても、あまり先のことは考えてなかった。価値観の違いがあるのはわかっていても、立ち止まって考える賢明さに欠けていました。ろくに覚悟も決めないままに成りゆきで結婚し、未熟なまま親になりました。相手にも子どもにも、申し訳ないことをしたと思っています。
だからやり直しがきく人には良かったねと言いたいし、ちょっぴり羨ましくもあります。

再婚と言えば、「だから あなたも生き抜いて」の大平光代さんの再婚を以前ここでもご紹介しました。
最初の結婚は16歳のときで相手は極道。並外れた努力で手に入れた、やり直しの人生の伴侶は先輩弁護士です。
その大平光代さんは9月に41歳で出産、生まれた女の子はダウン症だったそうです。
http://www.sankei-kansai.com/03_kikaku/ijime/01.htm
その現実を受け入れるのに彼女は1秒あれば足りたそうで、全くすごい人ですね。
悠(はるか)ちゃんもこんな根性のすわったお母さんの元に生まれて幸せだろうし、世のダウン症を持つ親、障害児の親にとっては心強い味方。ありがたいことです。
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2006年12月23日

Softbankにもの申す

携帯の機種変更をしようとした娘が、「今のサービスをそのまま使えなくなる」と言われて断念したそうです。
Vodaphoneの時代に買った電話機なのでVodaphoneのプランを使っていますが、機種変更をするとSoftbankのものに変えないといけないらしい。
今は長電話するのにラブ定額とやらで毎月数万円分節約しているので、これが使えないと困る。そりゃそうでしょう(来年になると可能とか。0円キャンペーンが終わってから?)。何万円分も長電話してないで会うなりその時間勉強なりしてくれればいいんですが、それはまあさておき。

全く、不愉快な思いをしています。私はそもそも、胡散臭いあのおでこの広いオジさんの会社の電話機を使うつもりなんか毛頭なかった。まさか2回も会社名が変わる憂き目に遭うなんて。あのヒトの会社になるなんて。
J-foneからVodaphoneのときは、別に腹も立たなかった。電話機を買い替えたりもしましたよ。
でも今度はひどい。メールが0円なんて詐欺まがいのキャンペーンを張って、実はタダでもなんでもないってことであざ笑われている。顧客として恥ずかしい。

だいたい、コストがかかっているものをタダで提供出来るわけがない。タダより高いものはない、が世のならい。どこかで釣り合いを取るに決まっています。あんな見えすいた手口で客を増やそうなんて、消費者をなめてると思う。
今契約なら何割引だとか何とか、今の値段でやっていけるんなら値上げする必要はないでしょう。そんなら最初から安くすりゃあいいじゃないか。
それに、長く使っている顧客を少しは大事にして、現在ありがたく使っているVodaphoneのサービスをそのまま提供したらどうなんだろう。

昔、うちの近くに開店した家電の量販店は、バカ安の目玉商品を用意して集客を図っていました。
出血価格の目玉目当てで、開店当初はそりゃあ押すな押すなの賑わい、でもすぐ行き詰まって閉店してしまいました。そりゃあそうでしょう、バカ安の分は他の商品で穴埋めしなきゃいけないんだから、目玉以外は割高になってしまう。
ヨドバシみたいに桁違いの大きな商売していれば倉庫買いでコストダウンも可能だろうけど、小さい量販店じゃ太刀打ち出来ないはずです。
第一、客を集めればいいってもんじゃない。目玉に飛びつくだけの単発の客じゃなくて、ことあるごとにやって来てくれる常連さんやリピーターが増えないと店はやっていけないと思う。携帯で言えば、何年も契約したままの古い顧客でしょ。

最近に限ったことではないけれど、Softbankのメールは、特に夕方から夜にかけては、届かないことが多すぎる。「何分の特急に乗ったから駅まで迎えに来て〜」というのが、夜中になってから届いたりします。
わが家は3人でSoftbankを使っていますが、3人ともこういうことはよく経験するし、周囲の利用者にも同じ意見の人が多いです。
こういう不都合はずいぶん前から指摘されていて、番号を移せるようになったのを機にSoftbankに見切りをつける人も多いように思います。なにしろ、いっこうに改善されないのだから。いやむしろひどくなる一方です。

悪評紛々のコマーシャル(友だちに「アンタが悪いんじゃない」と言うもの)作ったり、キャメロン・ディアスの出来の悪い写真(見る度に腹が立つ。もっときれいな人のはず)を駅に張りまくったり、ブラピを起用するカネがあるなら、中継局を整備してメールがちゃんと使えるようにしてほしい。
そっちの都合で会社が変わったんだから、もとのサービスを継続して使えるなり、似たようなサービスを用意してしかるべきだと思う。
しっかり頼みますよ、Softbank。つぶしたりしないでね孫社長。せめて私の携帯が壊れるまでは。
posted by dashi at 23:07| Comment(3) | TrackBack(0) | 身辺雑記

2006年12月22日

夜郎自大

脳科学者・茂木健一郎さんのブログ「クオリア日記」12月18日付に、こんな一節がありました。http://www.kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/

「夜郎自大と暗い自負心ばかりが増大する
どこかの国には、ツメノアカが必要だろう。
 
 自分で自分のことを美しいとか、
偉大だと言うのは、
 インテリジェンスの欠如に過ぎない。」

簡潔にうまく言う人だなあと感心。本がよく売れるはずだわ。
ところで夜郎自大という言葉、久しぶりに聞きました。
似たような意味の言葉としては「井の中の蛙」もありますが、ニュアンスはだいぶ違うように思います。

夜郎自大は「史記ー西南夷伝」に記された故事に基づく成語です。
秦の時代に成都から夜郎国まで一度は道(五尺道)が作られ、官吏が置かれたと見られていますが、十年余りで秦は滅亡してしまいました。そのあと漢の武帝は西方への交通路を開こうとして数年にわたって守備兵や食糧を補給しましたが、多くの死者を出すばかりで効率が悪く、あきらめかけていました。
そこへ領土の拡大、安定を図って西域の調査に派遣していた張騫(ちょうけん)の報告が入ります。身毒国(みどくこく:今のインド)に至った張騫は、漢と身毒国の交流には立派な交通路が是非とも必要と考え、途上にある夜郎国との関係を持つように武帝に進言しました。

夜郎国というのは現代の貴州省にあった国です。
西南夷(せいなんい)と呼ばれる少数民族が立てた10ばかりの国の中で最も大きく、勢力を誇っていました。とは言え今でもかなり貧しい省である地域のことですから、大きいと言ってもたかがしれています。
武帝は張騫の進言を入れて、夜郎国に使者を遣わしました。
それまで漢とは交流がなかった夜郎国の王は、漢がすでに強大な国家であることを知りませんでした。漢の使者に「漢と我が夜郎国とどちらが大きいのか」と聞いたそうです。
聞かれた使者の「開いた口がふさがらない」顔が見えて来そうなエピソードですね。

それから人々は、世間知らずで、自分の力量を知らないで尊大にふるまう人のことを「夜郎自大」(夜郎は自らを大なりとする)と言うようになったそうです。
(武帝はその後本格的に「西南夷の経営」に乗り出し、軍隊を大量動員して制圧しました。そして幹線道路を整備して直轄支配したということです)
海の向こうに、この形容がぴったりの国があるようですね。
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2006年12月21日

飛行機の中

おととい乗った便は正午は空の上だし、下りたらすぐ乗り換えて移動したかったので、昼食は機内で摂ることにしました。朝作ったサンドイッチと、家にあったヤマザキのランチパック(密閉した袋入りのサンドイッチ)を持って搭乗しました。(搭乗時間が短いから機内食は出ません)
コーヒーをもらって自家製のサンドイッチを食べ終え、ランチパックを取り出すと、これがぱんぱんに膨れ上がっていてびっくりしました。縁日で売っているアルミの風船みたいです。
破裂しないかとツンツンして遊んでしまいましたが、丈夫な袋なので膨れたまま。腐敗して発酵してもこんな状態になるのかもしれないけど、賞味期限前のパンだからそれはないと確信がありました。
少し耳がヘンで、イヤホンで聞いているテレビニュースも雑音がひどいけど、上空にいるからと言って何も違和感はなかったのですが、やっぱり視覚に訴えられると説得力がありますね。地上とは違うんだ〜と思いました。

ちょっとの時間乗るだけの客ならたいして影響も無いでしょうが、これが長時間乗り続ける国際線の客や、乗務員には相当の負荷がかかっているなと思いました。
現役スチュワーデスらしい人のブログを見つけて読んでいたら、やはり「航空性中耳炎」というのにかかる人が多いそうです。職業病の一つでしょうか。
仕事を終えてからも二日ばかり耳がヘンだったりするし、風邪ひいて鼻が詰まっていたら(仕事を休んだらいいようなものの、フライトの途中で風邪になる場合もあるでしょうから)着陸の際、耳がすごく痛むそうです。高層ビルのエレベーターで急降下し続けるようなものだから、気圧がかなり変動するのでしょうね。

また、客室乗務員は原子力施設で働く人の数倍の放射能を浴びるというデータ、パイロットの皮膚ガン・前立腺ガンになるリスクが普通の人の10倍というデータもある(因果関係の証明はまだ)そうです。
ニューヨーク〜ロンドンの片道だけでレントゲン一回分の放射能を浴びることになる。長時間、北極を通るルートは特に危険ということです。
世界中で乗務員やパイロットの組合が会社と改善を求めて話し合っているそうです。
機内は乾燥するので、髪もかなり傷む。抜け毛にも苦労するそうです。
身だしなみを整えるのも仕事のうちでしょうから、なかなか大変ですね。

また機内食を出す路線では、オーブンを扱うし揺れもあるので、よく腕に火傷をするそうです。
水ぶくれになってずきずき痛んでも、笑顔を絶やさずに接客するんでしょうね。こういう修行をした人はどんな修羅場でも甲斐甲斐しく人の世話をして、沈着冷静に行動出来ることでしょう。
エコノミークラス症候群みたく足がむくんで痛むので、医療用の1万円もするストッキングを使うという話もありました。(全然疲れないそうです)
荷物を棚に入れたり、腰をかがめて話をしたりするからか、腰痛も職業病らしいですね。
ストレスで内臓を傷める人も多いそうです。
華やかに見えるパイロットやスチュワーデスにも、こんな苦労があるようです。飛行機の中って実は修道場?
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2006年12月20日

格安ツアー

格安航空券と言うと海外旅行を連想する人が多いと思いますが、国内旅行にもあります。あまり儲からないので広告宣伝費はかけられないのでしょう、その存在は案外知られていないように思います。
今回の帰省で私が使ったのは、往復JALの航空券にホテル一泊つきのツアー。帰省、行楽シーズンではない平日なので一番の低料金、片道の航空券より安いからびっくりです。
ツアーと言っても単独行動です。ツアーチケットのばら売りという感じですが、実際にそういう仕組みで安くなっているらしいですね。安くても、空気だけを運んだり、客がいなくてスタッフだけ待機、というのよりはいくらかマシなのでしょう。
スカイマークのようなもともと安いチケットや、航空会社が販売する割引券((PEX航空券。1万円チケットなどの企画ものも)がシーズンによっては非常に安くなる例もあるようです。

今回は目的地(空港)や搭乗時間も、ホテルも(対象物件の中から)自分で自由に選べました。
安いツアーであることのしばりとしては、10日前までしか購入出来ないことと、搭乗機種と日時の変更、ホテルの変更が出来ないことぐらいでしょうか。もうちょっと高いツアーになると、手数料払えば(いらないのもある)帰りを延ばせるのもあるようですね。
安いからあまり期待していなかったホテルも、まあ古いながらも普通にシャレた部屋で、バイキングの朝食つきです。

ツインの部屋に一人で泊まりました。夏に岐阜に行った時はシングルの部屋でとても窮屈、「狭い部屋を無駄なく使う工夫」の見本みたいだったので、今回は開放感に浸れました。
父は亡くなり母は入院中。親のいない実家ではなくホテルに泊まって(ちゃんと泊まるように旅行社からは釘をさされています)、田舎の友人と会うつもりでしたが友人の子の風邪のため中止。一人でのんびりしました。
そう高くないホテルらしく、朝食時には庶民的な外国人を多く見かけました。東南アジア系の団体さんがいたので「どこから?」と(いちおう英語で)聞いてみたら、シンガポールからのお客さんでした。
大人と一緒に子どももいましたが、シンガポールはもう冬休みなんでしょうか。

この半年で4回も帰郷(一度は途中まで)しましたが、急に葬儀となった前回以外は安いツアーの航空券を使いました。(この部分、事実関係に誤認があるようです。メンドクサイのでこのままで。21日記入)安いのにもいろいろあるようです。
今度初めて経験したのは、あらかじめ郵送されて来た書類に記された数字(アルファベットまじりの8桁)を機械に打ち込んで、航空券を発券するシステムです。ほかの2回は旅行会社の店頭で手渡されたのと、空港の専用カウンターに行って受け取るやり方でした。
航空券を機械で発券出来るなら、人件費も時間もだいぶ節約出来るのではと思いました。正規の料金で購入した前回は、搭乗券購入のために行列して乗り遅れないかやきもきしたものです(先にしてもらいました)。

息子は明日から冬休みとなるので、きょうは短縮授業でした。スクールバスのポイントに一時間早く迎えに行くのに間に合わせるため、午前中の便で戻って来るという慌ただしいスケジュールでした。
母の見舞いに行ったら、同じ病院にたまたま父の義姉も入院しているというので覗きに行き、居合わせた年上のいとことひとしきり話し込みました。義伯母はもう87歳と高齢ですが、この年になるまで大きな病気も怪我もしたことがなかったそうです。
義伯母は交通事故で下半身を3カ所も骨折して、その後高熱が出て意識を無くし始終眠ってばかり。顔をしかめたり目をちょっと開ける場面もありましたが、反射反応という感じでした。
この人もこのまま眠るように絶命するのかなと、先日亡くなった世界一長生きした女性(12月14日付でここに書きました)のことを思いました。

今回は、やたらと胸騒ぎするので帰省したのでしたが、もしかしてこの義伯母に呼ばれたのかもしれません。おそらくこれでお別れなのだろうと思いました。
伯父は15年も前に亡くなっていますが、その後もずっと隣町の父の生家を守っている気丈な人です。父の葬儀のときはまだ元気で言葉も交わしたのに、と諸行無常の感を強くしました。
母は怖れていた通り認知症がだいぶ進んでいて(癌が脳に転移ということかもしれません)、私のことも「これ誰?」と姉に聞かれてもわかっているのか微妙。とんちんかんなことを言っていましたが、身体の方は痛みもなく大丈夫のようでした。

姉が業者に頼んできれいにしたお墓に参りに行ったら、父の名前に並んで母の名前も彫ってありました。「こうすれば長生きするってみんなが言うから」と姉は言ってましたが、墓地を買うと長生きするというのは私も聞いたことあります。(買うのを待ったように亡くなった、という話もありますけどね)
それにしても、亡くなってから葬儀に参列するよりは、存命中に見舞う方が本人も少しは喜んでくれるでしょう。また格安ツアーのお世話になろうと思った次第です。
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2006年12月18日

また、お休みします

実家の母が入院しているので、明日、冬休みになる前に見舞いに行きます。
ホテル一泊もついた格安のツアーチケットで、それでもJALで往復です。
いったい、どういう料金体系になっているのか興味津々ですが、それはまた帰ってからゆっくりと。
息子を連れては帰省もままならないし、休み中に預けるのは費用もかさむので、明日朝出ます。今夜はちょっと忙しいので、更新はお休みさせていただきます。よろしく〜。
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2006年12月17日

世界一背の高い人

適材適所と言うべきでしょう。
この任務のために内蒙古に住む男性が、遼寧省扶順の水族館「皇家極地海洋世界」に呼ばれました。
そこのイルカ「海海」と「楽楽」が月初めから食欲不振と情緒不安定が続いていたため、胃カメラで調べたところ異物が発見されました。そしてその異物(プラスチック片)は重く、イルカの胃は特殊な構造のため、いろんな道具を使っても取り出せなかったそうです。
日増しに弱って瀕死状態だった2頭のイルカの口から、この男性が長い腕を差し込み、胃の中にあったそれを見事取り出すことに成功。イルカは元気になりつつあるそうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061217-00000982-reu-ent
http://j.people.com.cn/2006/12/14/jp20061214_65956.html
腕の長さはなんと1m6cmもあるというこの男性(鮑喜順さん56歳)、身長は2m36cm、世界一背の高い人です。

そののっぽぶりを示す画像がほかにもありましたのでご覧下さい。
http://japanese.cri.cn/151/2006/01/18/1@55732.htm
親兄弟はいずれも普通の身長。鮑さんだけが15歳のときから急激に伸びたそうです。
ホルモン異常で巨人になる人もいますが、この鮑さんは検査の結果脳下垂体の分泌は正常、ギネスブックでも「健康体で正常に成長した世界一背の高い人」と認定されているそうです。
それにしても驚異的な高さですね。服は特別にあつらえないと既製品ではつんつるてんでしょう。
杖をつかないとまっすぐ立てないのかな、重力に逆らうのも大変そうです。

うちの娘はこの画像を見て「食べる量はどうなんだろう」と気にしていましたが、もう若者ではないからそれはあまり関係ないと思います。
私が気になるのは、心臓からの距離が遠くなる分、足先まで血液を循環させるのが大変だろうな、という点。
つま先まで下りて行った血液は今度は心臓めがけて上がって行かなければなりませんが、モーターで汲み上げるわけではない。血管の収縮や筋肉の働きなどで押し上げられるということですから、人より強い心臓(ポンプ)がないと血のめぐりが悪くなりそうです。
冬場は零下20℃にもなる地方だとしたら、足の防寒にはかなり苦労しそう。靴のサイズも大きいでしょうしね。
それに内モンゴルで馬に乗るとしても、あぶみに足をかけるのはもちろん無理でしょう。足が地面について困りそうです。

あまりに背が高すぎても、どっちか言うと普段は不便なことの方が多いんじゃないかと思いますが、今回はこの人にしか果たせない任務でした。普通の長さの腕ではイルカの胃に全然届かなかったそうです。
ちなみに両腕を伸ばした長さは身長とほぼ同じ(テニス選手は腕の方が長いらしい)と言いますから、2m30cm前後のものは両手をかけて持ち上げられることになりますね。すごい……
鮑さんが長い腕を生かして異物を取り出す様子は、地元のテレビで放映されたそうです。一躍英雄。
イルカの命の恩人になれてよかったですね!
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2006年12月16日

障害児と逆縁

きょう息子の通う養護学校でクリスマス会があって出かけました。
午前中の式が終わったあと昼食後には、関係の深い大学からやって来た合唱部の皆さんがコンサートを開いてくれました。アカペラで童謡などを歌ってくれ、最後の方ではピアノの伴奏もつけて賛美歌やハレルヤコーラスなども。
美しいハーモニーに聞き惚れているうち、私の隣に座ったお母さんの様子が気になりました。
このお母さんは昨年、大学生の愛娘を突然の事故で亡くした人です。娘さんが生きていれば、壇上で歌っている学生さんたちと同じ年頃。これは辛いだろうなと思いましたが、不用意に声もかけられない。
そのうち、彼女の膝の上の手が落ち着かなげにしきりと動き出しました。

私は胸が詰まり、思わず彼女の二の腕に手を置いていました。「辛いよね」と声が出ました。
彼女は何度も小さくうなずき、「大学4年生だから、同じなの」とつぶやきました。
私は彼女とはあまり付き合いがなくて娘さんとも会ったことがないのですが、知らせを聞いて告別式には出席しました。
彼女の少し年の離れたご主人が、すっかり老け込み憔悴しきった様子で、声を詰まらせながら挨拶されていました。
亡くなったお嬢さんの友人と思われる若い人がたくさん来ていて、突然のことにぼう然、泣きじゃくっている子もいました。お母さんに似た可愛らしい笑顔のパネルの前に、白いカーネーションを一本ずつ置いたものでした。

コンサートのあと教室に戻って、彼女と少し話をしました。
もう一周忌も終わってだいぶ落ち着いたそうですが、一時はショックで片方の耳が聞こえなくなったりしたそうです。ストレスから来るもので、異常はないけどひどくなるとメニエール病になるとか。
地震かと思うくらいぐらぐら揺れるめまいがしたり、いきなり涙がワッとあふれたり、かなり精神的に不安定な状態が続いたようでした。
障害児を含む二人の弟を可愛がる優しいお姉さんで、親の期待以上のとても優秀な人でもあったようです。
何ごとも日にち薬で、少しずつ少しずつ心の傷も癒えていくのでしょうが、かなりの時間がかかるだろうなと思います。

彼女のほか、障害児の親で子どもを亡くした人を何人か知っています。
障害児が亡くなったのは二人。
一人は私が子どもを連れて実家に身を寄せていたころに、息子の通園施設で一緒だった子です。
重い知的障害を伴う点頭てんかんの子で、始終発作を起こしてはヘッドギアをつけた頭を壁に打ち付けていました。
その姿を見ているだけでとても辛いものがあり、毎日介護しているお母さんはどんなに苦しい日々かと思っていました。私が引っ越したあと間もなく、プールに浮かんで発見されたと聞きました。

もう一人は、引っ越したあと通った療育施設で一緒だった子です。重い脳障害があって一人では動けず、車椅子というよりベビーカーみたいなのにいつも乗っていました。
施設の行事で、節分だったのか豆まきがわりに殻つきのピーナツがばらまかれ、子どもたちが嬉々として拾うということがありました。その時に、周囲のことに配慮できない障害児たちがその子の乗ったベビーカーすれすれを走り回り、お母さんが「危ない」と怒っていたのを覚えています。
活発に動き回る子どもには、たぶんに複雑な思いがあったのでしょう。
この子は身体も脆弱で、養護学校の小学部の時に亡くなりました。

同じ療育施設に通っていた子の妹が亡くなったのは、私がそこに通い始める少し前のことで直接には知りません。
お姉ちゃんを送って来るお母さんと一緒に毎朝その施設に通って来て、「お姉ちゃんをよろしくお願いします」と頭を下げるおしゃまな子だったとか。ある夜、急に高熱が出て意識を無くし、救急車で運ばれた病院で2日後ぐらいに亡くなったそうです。
きょうだいは二人だけだったので、残ったのは重い脳障害で寝返りも打てないお姉ちゃん。このことと関係あったのかどうか知りませんが、そのお母さんはのちに離婚したと聞きました。
結婚が早かったのか、まだ若いお母さんでした。子どもが養護学校に入ったあと、近くの小学校の給食室で元気に働き始めたという話を聞きました。

息子の学校のお母さんと同じ電車に乗り合わせて、きょうだいは、と聞いたときのことです。
「上にお兄ちゃんがいたけど亡くなったの」
と静かに言われたときは耳を疑いました。そのお母さんは寂しげに微笑して、
「急に亡くなったの。中学校の林間学校で行った先で、心臓マヒだったそうなの」
と淡々と話してくれました。もう何年もたっていたからか涙目になるようなことはありませんでしたが、悪いことを聞いたかなあとしばらく気になりました。
障害児のお姉さんが亡くなった例は、卒業したばかりの子の家でもありました。その子は可愛がってくれていたお姉さんの死を理解できず、しばらくは不安定で周囲を困らせたようです。

息子が障害児とわかってからもう15、6年にもなりますから、障害児やそのお母さんと知り合う機会もたくさんあります。
みんな普通の社会と同じく毀誉褒貶、喜怒哀楽、決して「悟りの開けた」「品行方正、率先垂範、純粋無垢」とは言えない生活を送っています。
障害児がいて大変だからって、死神に容赦はしてもらえません。お父さんやお母さんが亡くなる場合だってあります。
詰め込みなしで天和をあがることだって、対子も順子も一つもなし(シーサンパラパラ)のときだってある(麻雀用語がわからない人、ごめんなさい!)。
運命は甘受するしかないですね。
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2006年12月15日

スルー力

するーか、じゃなくて「するーりょく」。
スルーする(出来る)能力という意味で、主にネットの世界で使われているようです。数年前に話題になった「老人力」のような使われ方でしょうか。
スルー(through)を大辞泉(国語辞典)でひくと
「1.テニスで、ボールがネットの網の目を通り抜けて相手側のコートに落ちること」
とまず書いてあります。これが日本における原義なのでしょう。続けて、
「2.多く複合語の形で用い、通り抜けの、素通しの、の意を表す」
として『ドライブスルー』『フォロースルー』『シースルー』などの例が挙げてあります。ドライブスルーは定着していますが、シースルーなんて死語じゃないのかなと思いました(広辞苑にはあります)。
ネット用語のスルーはまだ正しい日本語として認知されてないようですね。

以前、私にはこんなことがありました。
あるQ&Aのサイトに書き込んだ私のコメント、何が原因か(どのコメントか)心当たりがないのですが、気に喰わなかった人がいたらしく、私のワルクチを2ちゃんねるに書き込んだようなのです。
私の質問に答える欄で「あなたのことが2ちゃんねるに書いてある」と教えてくれた人がいました。
「2ちゃんねるには行かないから見ない。でも書き込んだ人は相手が書かれたことも知らないんじゃつまらないだろうから、わざわざ教えてくれてありがとう」
と返事しました。書いた本人とは思わなかったのです。

ところが私の対応に怒ったのか面白がったのか、この人は私がコメントを入れたところ(全く無関係なところ)に現われては
「dashiは2ちゃんねるで○○(サイトの名)の寄生虫と呼ばれている」
などと書き続けたのです。3回ばかりあったでしょうか。
粘着質の生物にべたっとくっつかれ、振り払っても取れない、そんな気分でした。幸い管理のしっかりしたサイトなので、ばっさり削除されて終わりました。
相手が私を直接知っている人物だったら、実名や住所も、もしかしたら家族の名や履歴も2ちゃんねるで晒されたのかもしれないな、とちょっと不気味でした。
いじめ自殺の原因に「ネットで悪口を書かれた」というのを見かけると、この時のことを思い出します。

それにしても、何をもって寄生虫呼ばわりされたのか知りませんが、一度は私の質問の回答欄だったのでお礼の欄に「どうせなら寄生虫ババアと書けば」といなしたものでした。
でもこういう、あおるような行為(意図したわけではありませんが)はタブーらしいですね、ネット初心者だったので知りませんでした。ひどくなるといわゆる「炎上」「祭り」と呼ばれる状態になるのかもしれません。
一番最初のにも返事をするべきではなく、ひたすら無視が正しい対応でした。
ここで平然と無視を決め込めるのが「スルー力」がある人、ということですね。

「人生の大半の問題はスルー力で解決する」と断言する人もいますが、(http://0xcc.net/blog/archives/000133.html)それも一面の真理。周囲の雑音(?)を気にしないでわが道を行くことが出来れば、ストレスと無縁の幸せな人生かもしれません。
戦時中、ナチス全盛の時に「独裁者」を撮影したチャップリンなんか、スルー力が高そうですね。
やむにやまれぬ正義感から撮ったと言うより、極貧の出だし、怖いものがなかったのじゃないかと私個人としては思います。周囲が何を言っても意に介さなかったのでは、と。
チャップリンは、存分に仕事して、4回の結婚で5女6男ももうけています。1889年4月−1977年12月と長生きもしました。あれだけの映画を撮りながら、病気にもならなかったみたいですね。

スルー力と聞いて「あっしには関わりのないことでござんす」というフレーズを連想した私。
この決めゼリフの「木枯し紋次郎」が流行したときもこういう姿勢に賛否両論激しかったように記憶しています。(もっとも、<ちゃんの仕事は刺客>だからニヒルになるのも当然なのですが。ゴルゴ13も同じ)
袖振り合うも多生の縁。せっかく同じ時期にこの世に居合わせた仲間同士、見て見ぬふりは寂しいと思います。困っている人やいじめを見たらスルーしないで、自分に出来ることはないか立ち止まって考えてほしいですね。
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2006年12月14日

長寿の人

ギネスブックが世界最高齢と認定していた米テネシー州在住の女性、エリザベス・ボールデンさんが11日亡くなったというニュース。116歳です。
http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200612120010.html
1890年8月15日の生まれ。
日本で言えば明治23年で、同じ年に生まれたのは5代目古今亭志ん生(6月28日)。海外ではアガサ・クリスティ(9月15日)、ケンタッキー・フライド・チキンのカーネル・サンダース(9月9日)、ホー・チ・ミン(5月19日)、ド・ゴール(11月22日)など。カーネルおじさんの1980年、ホー・チ・ミンの1969年を除けば他はすべて1970年代(みんなけっこう長命!)に亡くなっています。
こうして見るとやはりずいぶん長生きした人ですね。

長生きして何がすごいかと言うと、子孫の数なんと500人以上!
孫が40人、ひ孫75人、玄孫(やしゃご)150人、その子どもの来孫(らいそん)220人、さらにその子どもの昆孫(こんそん)も75人いるそうです。(子は亡くなっているようですね)
来孫、昆孫なんて言葉、初めて聞きました、そんな言い方をするんですね〜。生きて自分の来孫、昆孫の顔を見られる人はほとんどいないでしょうけど。
倍々ゲームではないけど、確実に子孫が増えていってるなあと思いました。
2004年に脳卒中で倒れてからはあまり話さなくなり、一日の大半を眠って過ごしていたそうです。ロウソクの火がだんだん弱くなって消えるような、一番自然な死に方かもしれませんね。

そんなに多くの子孫は残さないけど、94歳になって初めてのリサイタルを開く元気な老婦人もいます。
http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000000612130003
東京都町田市在住の篠原愛さん。
記事を読んでご立派! とうなってしまいました。夫が戦時中に興した会社の経営に83まで携わり、翌年に友人の誘いで初めてシニアコーラスグループに参加したというのです。
それまで歌を趣味でやってたわけじゃなくて、「女学生のときに賛美歌を歌った程度」。会社経営をしていたから大きな声を出すことに慣れてはいたかもしれませんね。
週一度のグループレッスンに加え月2回の個人レッスンを受けて研鑽を積み、リサイタル開催となったそうです。入場料も1000円と本格的。
「歌を始めて、こんなに楽しい世界があるのかなと驚いています」。脱帽。

元気に長生きしててよかったですね、と声をかけたくなるのは東大名誉教授の穂坂衛さん、86歳。
47年前の発明にアメリカの電気電子学会(IEEE)から「The Computer Pioneer Award(コンピューターの先駆者を称える賞)」が贈られました。
http://www.kubotek.com/info/news/2006/n061110.htmhttp://www.kubotek.com/info/news/2006/n061110.htm
評価されたのはJR「みどりの窓口」の原型となるコンピューターシステム開発。情報化社会の先駆けとなった功績です。
10月末サンディエゴでの授賞式では、同じく賞を受けたスピルバーグ監督の父親アーノルド氏(制御工学者)も壇上に並んだそうです。
穂坂さんは80歳過ぎまでソフト開発に取り組み、証券取引システムの生みの親、コンピューターグラフィックスの草分けでもあるということです。
今は奥さんのために料理に挑戦しているそうですが、どんな味なんでしょうか。CGより手こずりそうですね。
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2006年12月13日

無謀運転

きょう福岡地裁で、こんな判決が出ました。
猛スピードで自損事故を起こして同乗していた友人4人を死なせ、自分と助手席の女性に怪我をさせた19歳の少年。裁判長は「無謀、責任重大」として懲役4年から7年(求刑5−7年)の不定期刑を言い渡しました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061213-00000027-nnp-l40
(少年の場合は不定期刑になるようですね。更正の程度に個人差が大きいのでしょうか)
免許を取って日が浅いにもかかわらず60キロ制限の道路を倍の120キロで飛ばして、カーブを曲がりきれずに横転、橋脚に激突したそうです。
後部座席の4人が亡くなったということなので、後部が大破したのでしょうか。RV車だったそうですから、もしかして前部に鹿よけがあって軽症だったのかもしれませんね。定員5人の車にオーバーして6人乗っていたというのも被害を大きくしたのかもしれません。

それにしても4人もの命を奪った運転手に対して、最短だとたった4年というのはあまりにも軽い処罰のように思えます。
亡くなった4人は中学校の同級生で、「盛り上がった雰囲気をこわしたくない」からスピードを上げていたそうです。無理やり乗せたのとは違うから情状酌量されたのでしょうか。また、あと何ヶ月で成人になっていたのか知りませんが、未成年(少年)であったことが多分に影響しているのでしょう。
殺意があって殺した(殺人)のではないにしろ、業務上過失致死ではあまりに量刑が軽すぎるとして導入された危険運転致死罪では、ひき逃げなど他の罪も合併して最長の懲役20年が求刑されている事例もあります。
http://response.jp/issue/2004/0607/article60997_1.html

きょう判決が出た事故のせめてもの救いは、自損事故だったことですね。これがほかの車に追突やら正面衝突していて無関係な相手を殺していたとすれば、気の毒すぎて言葉をなくすところです。
それでも亡くなった人の遺族の中には、よくもおめおめと……と運転手に恨みを持つ人もいることでしょう。盛り上がって笑いさざめきながらの暴走が、取り返しのつかない悲惨な結果となりました。

暴走と言えば、私も若い時にとても怖い体験をしました。
住んでいた九州から先輩の故郷山口まで、男友達二人と日帰りでドライブした時のことです。
友人は貧乏学生だから車を所有していたわけではなくて、誰かに借りたかレンタカーだったのだと思います。私は助手席に乗せてもらいました。
その友人は初心者ではなかったけど、免許取ってから乗る機会はあまりなかったようです。運転も未熟だったはずですが、久しぶりの運転に有頂天、ハンドルを握ると人格が変わってしまうタイプのようでした。
平日の日中だったので高速道路はすいていて、友人は歓声とともにスピードをどんどんあげます。いつもは物静かな人でしたが、高速走行に興奮しているのがよくわかりました。

前の方を走っている車にあっという間に接近して次々と追い越します。
スピードメーターが120キロを越えて、警告音が鳴り出しました。
いくら何でも飛ばし過ぎだ、怖いからスピードを落として、と私やもう一人の友人が再三言っても聞いてくれません。
そのうち雨が降り出しました。フロントガラスにぶつかった水滴が、どんどん上向きに流れていきます。いかにスピードが出ているかはっきりと視覚でとらえられて、私は怖くてたまらず、ついには泣いてしまったのでした。
友人はさすがに鼻白んで減速してくれました。

若い人の暴走の挙げ句の事故のニュースを聞く度に、あれはちょっとしたことで自分の身にも降り掛かった惨事だったかもしれないと思い出します。
25歳未満の人は任意保険の保険料が高いように、大半の事故は若い人が起こすもののようです。若くて無謀な集団にブレーキをかけてくれる仲間が、一人でもいたらいいのでしょうが。
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2006年12月12日

自閉症とてんかん

息子より少し年下の、ダウン症の子のお母さんをこのところスクールバスのポイントでよく見かけます。
もう何年も前から一人で通って来ている子だったので、どうしたのかと聞いてみたら、一度発作を起こしたから心配でずっと送迎をしているということでした。
電車とバスを乗り継いで通っている子ですから、その途中で発作を起こしたことがあったら、そりゃあ一人にするのは勇気が要りますね。その子は会話も出来る子なので、お母さんに「一緒に来て」と言うのかもしれないと思いました。

「発作って、……てんかん?」
と聞いたらおかあさんはうなずいて、
「熱はあったんだけどね。この年になれば熱性痙攣とは呼ばないんだって」
詳しく聞きたかったけど、バスが到着したのでそこで別れました。
ダウン症もてんかんの合併症が少なくなく、乳幼児で2%、20歳すぎると5%ぐらい見られるそうです。
自閉症の場合はもっとずっと多い。先日専門家のお話を伺ったところによれば、文献では25〜30%の合併率、脳波異常だけのものも入れると60%という報告もあるそうです。
うちの息子はこの60%に入ってるんだなあ、と思った次第。

てんかんはたいていの場合一つの適正な薬でコントロール可能な病気。治ってしまう人も多く、発作がなく脳波が正常な状態が5年続いたというのが、いちおう治癒(治療終了)の目安になっているそうです。ただもとが脳障害ですから、治療終了の見極めは難しいようです。
以前、投薬をやめたら発作が起きたという例を聞きました。その人は30歳過ぎてから子どもの時以来の大発作を起こしたそうです。ずっと薬を飲み続けていたけど、脳波もきれいだしもうそろそろいいか、ということになったようでした。
2階でドターンと音がした時、そのお母さんは発作だとピンと来たそうです。すぐ階段を上がって駆けつけ、いびきをかいて眠る息子の服を緩め、窒息しないように顔を横向きにしたとか。
「病院に運んでも眠るだけだから」と救急車は呼ばなかったそうです。
その沈着冷静さは見習いたいものだと思いました。

てんかんの治療をすることで、自閉症の子の行動障害、情緒障害が改善される場合もあるそうです。
逆に治療不十分のときに、行動障害がひどくなったりパニックが増えるという例もあるようですね。
てんかんによって性格が変わったり、薬の直接作用で多動、幻覚、妄想などといった症状が出ることもあるようです。
脳の働きに直接作用する薬ですし、てんかんといってもいろいろあるから、一人一人オーダーメイドで種類(調合)と量が決まります。必ず専門家の診察を受けて薬を処方してもらわねばならず、勝手に服薬を中止したり量を減らしたりするのは厳禁。量を減らすときは何週間、何ヶ月という単位で様子を見ながら慎重にやっていくものだそうです。
そしててんかんの薬は副作用として肝機能が落ちると言われ、定期的に血液検査も必要となります。
……ホントに大変そう。(きょうはここまで)
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2006年12月11日

独裁者の最期

チリのピノチェトもと大統領の死が伝えられました。
長年にわたって独裁政治を続けて数多くの人を虐殺した人なのに、91歳という高齢まで生き延び、病院で普通に「病気のために」亡くなったというのが印象的でした。
地球の裏側にある国のことですし、政治的なことはさっぱりの私がピノチェト死すの報に興味を覚えたのは、「ミッシング」という映画の記憶があったからです。
この硬派の映画は実際の事件に基づいています。映画のあらすじを含め事件について詳しく解説されたサイトがありましたので、関心を持たれた方はご覧下さい。
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Bushwar/hormantruth.htm

「アパートの鍵貸します」や「お熱いのがお好き」などコミカルな印象の強いジャック・レモンが年を重ねてから主演したこの映画は、ピノチェト指揮下の軍事クーデター直後に行方不明となった、サンチャゴ在住のアメリカ人ジャーナリストを探しに来た、父親の役でした。共演が息子の妻役のシシー・スペイセク。
半狂乱の嫁と一緒に息子を探しまわります。まさか、そんなバカな、と魚市場のマグロの山積みみたいにころがった、腐敗臭が漂うおびただしい死体の中を、息子の姿を求めて歩き回ります。
敬虔なクリスチャンでアメリカ政府を信じきっていた父親は、クーデターの背後にアメリカの影があることを知って愕然とするのです。
私には何もわからないけど、ピノチェトもと大統領が平和な死に方が出来たのには、やはりアメリカの影響があったのかなあと考えてしまいました。

対照的に「独裁者の成れの果て」という印象を強くしたのは、ルーマニアのチャウシェスク大統領でした。
貧農の出身から47歳で権力を握ったあとは「ルーマニア民族社会主義運動」の名の下に強権政治をすすめ、経済危機におちいったあと1980年頃から恐怖政治を開始。
国民に窮乏生活を強いる一方、軍事力確保のために一家族5人以上の子ども出産を義務づけたりしたそうです。
1989年12月22日、チャウシェスク演説中に集まっていた群衆が独裁糾弾集団に化します。
その場はいったんは逃れた大統領ですが近郊で捕えられて25日、「ルーマニア国民6万人の虐殺と10億ドルの不正蓄財」の罪で死刑判決。妻とともに即刻処刑されて、その銃殺後の映像が世界中に流れました。
今はネットで死体の写真を集めるトンデモ教師までいる世の中ですが、当時としては処刑の写真が流れるなんてとてもショッキングなこと。私の周囲でも話題になったものでした。

余談ですが、このチャウシェスクの次男ニクは、白い妖精コマネチにストーカー行為をして悩ませていたそうです。
コマネチは才能を認められて6歳のときから首都で独裁者肝いりの英才教育を受けました。
あまり若くない人はよくご存知の通り、モントリオールとモスクワのオリンピックで大活躍しましたが、コーチが1981年にアメリカに亡命してから盗聴など秘密警察の監視がきつくなったそうです。
1989年の11月末、命がけでオーストリアに脱出。アメリカに亡命して、のちアメリカ人金メダリスト(体操、バート・コナー)と結婚しました。
コマネチの亡命からチャウシェスク処刑まであまり時間がたってなかったように私も記憶していましたが、国民的英雄コマネチの亡命が民主革命の後押しをした面はあるようです。
ちなみにコマネチがモントリオールで10点演技を連発したのは14歳のとき。19歳には引退してコーチになった早咲きの花でした。
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2006年12月10日

ワーキング・プア

石川啄木が「働けど働けど楽にならざる……」と嘆き、岡林信康が「あんな一生懸命働いてはるのに なんでウチの家いつもお金がないんやろ」(チューリップのアップリケ)と歌った貧しさは、今も深く共感する人が多いのでしょう。
朝から晩まで畑に出て働いたり、毎日正社員並のフルタイムで働いても、生活保護の水準にも及ばない低所得(ワーキング・プア working poor)の家庭が今日本には700万世帯以上もあるそうです。
ちゃんと働いているのに貧困と闘わなければならないというのも悲しい話ですが、年金暮らしで収入は限られているのに介護保険料があがったり負担金が増えたりして、さらに不安な気持ちで老後を送る高齢者や、自立支援法導入で自己負担が増えた障害者にとっても寒さが身にしみる季節です。

今度は生活保護費の母子加算を削減の方針とのこと。
http://www.asahi.com/life/update/1130/003.html
削減の根拠となるのが、「生活保護を受けていない母子世帯の消費支出より多いから」というのも残酷な話です。
おりしも今日NHKスペシャルでワーキングプアを取り上げていて(続編のようです)、生活保護を受けずパートを掛け持ちで二人の息子を育てている母親を紹介していました。
小学生の子どもと夜一緒に過ごせるのはたった3時間。寝かしつけてからまた仕事に行き、帰りは夜中の2時。睡眠時間は4時間ということでした。若いから出来ることでしょうか。

どんな理由で離婚したのか、養育費はもらえないのか、そこらへんはわかりませんでした。
女の細腕でパート掛け持ちで働いて、月18万の収入。アパートの家賃や公共料金、学校関係など必要経費を払うと、食費などに自由裁量で使えるお金はわずか2万円あまりだそうです。
生活のために命を削る母親も哀れだけど、母親に甘えることも出来ない子どもたちが何を思い、どんな大人になるのか気になりました。
母子加算を削るということは、いま生活保護を受けている母子世帯すべてに、この女性のような生活をしろと迫ることだと思います。家族の誰かが病気でもしたらどうなるのでしょう。

今の政治は、社会的弱者に対してあまりに冷たすぎる。苛酷になる一方だと思います。
posted by dashi at 23:09| Comment(0) | TrackBack(1) | 社会問題

2006年12月09日

子どもの臓器移植

生後9ヶ月の赤ちゃんがアメリカに渡って多臓器移植を受けたというニュース。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061209-00000066-mai-soci
「山下みらいちゃんをすくう会」(住友隆介会長)という支援団体が作られ、一家の渡航費用や移植費用を集めて支援。米マイアミ大ジャクソン記念病院で移植を受けたものです。住友会長に両親が喜びの電話をかけて来たそうです。
生まれつき腸に神経がない難病「全結腸型ヒルシュスプルング病」の山下みらいちゃん。胃、肝臓、脾臓、小腸に大腸と計5つの臓器を移植。移植された臓器はすべて順調に機能しているそうです。

みらいちゃんは元気になり両親は喜ぶ。支援に関わった人たちも達成感を得て苦労も報われるでしょうし、募金した人たちも自分の行為が一人の命を救ったことに満足し素直に喜んでいるでしょう。
でも、こんなに幸運な子どもはごくわずか。素早く支援の手が差し伸べられずに死んでいった子どもたちの方が、数としてはずっと多いことでしょう。
募金して費用は集まったけれど間に合わず、肝腎の子どもの容態が急変して死んでしまった、というニュースも少し前に聞きました。

両親も含め3人の渡航費用、長期にわたる滞在・加療の費用、移植にかかる費用。莫大な金額です。これが国内で出来る移植手術ならば、費用も心労も何分の一かに軽減されることでしょう。
なぜそれが出来ないかというと、日本では15歳未満の子どもの、脳死での臓器提供が認められていないため。子どもからの臓器提供がない以上、臓器の大きさが合わない大人の臓器を子どもに移植するのは、事実上不可能です。(日本でも大人の臓器を8歳の子どもに移植した例はあるそうですが、乳児では無理な話でしょう)
腎臓や角膜など心臓死後でも移植できる臓器もありますが、心臓や肝臓は脳死状態からでないとダメ。肺なども死体から摘出したものは定着率が非常に低いと聞きます。
心臓が停止して血液が循環しなくなると細胞の分解(腐敗)が急速に進むからでしょうか。

ではなぜ子どもの脳死臓器提供が出来ないか。
「臓器提供に関する法律」に基づくと脳死段階での臓器提供が出来るのは「本人の提供意思と家族の同意」を必須条件としています。
そして法解釈上は一般的に15歳未満の子どもの意思表示能力は認められておらず、本人が望んでもその意思表示が有効とならないからだそうです。
一理はありますが反論を呼びそうな理由ではありますね。
移植しか助かる道はないと言われた親は、いじめなどで簡単に(と思える)自殺する子に、「要らないんならキミの臓器をおくれ!」と叫びたいでしょう。

脳死や臓器移植に対しては受ける立場、提供する立場で考え方は違って来るでしょうし、宗教や倫理哲学もからみ、優先するのは瀕死の患者か定着率の高そうな患者か、といろんな議論のある難しい問題。肉体に傷をつけるのをとても嫌う宗教もありますね。
私個人としては、そんなに大変な手術を受けて脳はダメージ受けないの? とか、せっかく受けても定着しなかった場合は支援者に対して肩身が狭くならないかな、と余計な心配をしてしまいます。
医学の進歩に舌を巻く一方、どれほど進歩しても助けられない病気がまだまだありますね。ES細胞の分離採取が出来たら臓器移植は不要になるのかもしれませんが。
posted by dashi at 22:01| Comment(4) | TrackBack(0) | 社会問題

2006年12月08日

きょうは何の日

12月8日が何の日かと聞かれて、なんと答えるかは世代でわかれそうですね。
私は直接戦争を知る世代ではないけれど、12月8日と聞くとやはり真珠湾攻撃を連想します。子どものころはこの日になるとラジオで特集番組もやってた記憶がありますが、きょうの7時のNHKニュースは宮崎県知事の逮捕関連ばかりで、真珠湾のシの字も出ませんでした。
昭和は遠くになりにけり。

真珠湾攻撃をざっとおさらい。
1941年(昭和16年)、「ニイタカヤマノボレ」(12月8日午前零時を期して戦闘行為を開始せよ)と送信、それに対し戦艦11隻を撃沈し航空機約400機を破壊して作戦の成功を伝える「トラトラトラ」、この二つの暗号は映画などでもおなじみ。意味は知らなくても子どもの遊びに呪文のように使われたりしていました。
事務的な手違いで結果的に奇襲攻撃となったわけですが、アメリカの恨みは深く、「リメンバー・パールハーバー」という合い言葉は今でもたまに耳にします。

もう一つ、ファンにとっては忘れ難いのが、1980年(昭和55年)、ジョン・レノンの死でしょう。
ニューヨークの自宅アパート前で、ジョンの熱烈なファン、マーク・チャプマンに銃で撃たれて亡くなりました。
この日はレノンズデー(Lennon's day)と呼ばれてビートルズファンには特別な日となっているようです。
ジョン・レノン・ミュージアムでは12月8日〜11日までの4日間、「ジョン・レノン・メモリアル・デイズ」と題した追悼イベントを開催しているそうです。
http://www.taisei.co.jp/museum/news/news/061116.html

その日、外回りに出ていた上司が帰社するなり「ジョン・レノンが殺された」と青い顔をしてつぶやき、一瞬の沈黙ののち短い悲鳴をあげて同僚が泣き出しました。
うら若きOLだった私は、ぽかんとして、何が起こったのか呑み込めなかったものでした。
それまでビートルズが話題に出ることなど一度もなかった職場でしたが、そのあとはビートルズの蘊蓄を傾ける上司に、仕事そっちのけで相手をしたことを思い出します。
私は人並みにビートルズも聴きますが(イエローサブマリンやミッシェルを口ずさんだりしますね)、個人的には「バック・ビート」という映画の影響で、不良少年(のち青年)の印象が強すぎて困っています。

1995年には福井県の高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故。事故隠しが問題になったようです。
当時は大騒ぎになったと思いますが、地元でないせいか、そんなこともあったっけ、程度の記憶で反省しています。
きょうはその他、
※針供養の日
※成道会(お釈迦さまが成道<悟りを得る>したとされる日)
※聖母マリア無原罪の御宿りの祝日
などというのもあるそうです。
針供養は、いつもやっている針仕事をこの日ばかりは休んで、折れた針を豆腐などに刺して供養をする日。裁縫をする人の方が少ない現在では、なじみのない慣習ですね。

ジョン・レノンのほか、三波伸介、諸橋轍次、土屋文明、柏戸(鏡山親方)の命日です。
それぞれ40歳、52歳、99歳、100歳、58歳と享年もばらばら。
きょうはこんな日でした。
posted by dashi at 23:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 興味津々

2006年12月07日

ホームレス

新宿区の戸山公園ほかに住みついていた野宿者は幸運だったと思います。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061207-00000133-mailo-l13
地域生活移行支援事業の対象となれば、日雇いで月数万の収入しかなくても、一ヶ月3000円の負担でアパートに住むことが出来るそうです。(もはやホームレスとは呼べませんね。住民票もとれる)
寒さに凍えることもないし、悪ガキに襲撃される心配もない。布団で安心して眠ることが出来ます。
問題はこれが2年間の有期事業であることで、事業延長が認められなければ、その住まいを出なければなりません。アパートの家賃の差額を都が負担しているそうですから、予算に限りがある以上、一生そのままとはいかないのでしょうね。

都は01年度から自立支援施設を用意して野宿者を収容しようとしたけれど、嫌って路上に舞い戻る人が続出。当時のテレビで、「あそこじゃ酒が飲めないからヨ」と言っている人を見かけ、寒くても物騒でも、飲んだくれる自由とひきかえには出来ないんだなあと思ったものでした。
それに個室でもないようでしたね。気ままなホームレス生活に慣れた人には窮屈だったかもしれません。
今の日本では本当に食べるものもない生活はあまり考えられないから、ひと昔前ほど悲惨な印象はないように思います。
多摩川を渡る電車の窓からは青いビニールシートの個室が見え、のどかに散髪し合っている姿も見えます。
晩酌のビールを我慢して納税しているサラリーマンにとっては、羨ましかったり腹立たしかったりする光景かもしれませんね。

気ままとはいっても、ホームレスが生活困窮者で社会的弱者であることはたしか。
障害児の親仲間で「自分たちの死後に子供たちがどうなるか」という話をしているとき、「ホームレスの中には障害者も多いだろうね」と言い出した人がいて、みんな同感でした。刑務所みたいな入所施設に入るよりは気楽でいいかも、と笑ったものですが、笑顔も引きつります。
横浜駅の東西出口をつなぐ中央通路の階段に、いつもうずくまっているハダシのホームレスがいました。伸び放題の髪が汚れてフェルト状に固まり、着ている服は着た切り雀なのかかなり汚れて、ハダシの足も黒ずんで角質化した感じでした。
観察していたわけじゃないですが、昼間そこを通る度にいつも階段の上、はしっこに小さくなっていました。通りがかったおばさんが声をかけているのを一度見かけましたが、顔はあげても声は出さないようでした。あの人は知的障害者ではないかとひそかに思っています。
かなり不潔な状態なのに駅員さんに追われることもなく長いこと居着いていましたが、近ごろは見かけないようです。

きょう、家の片付けものをして、不要になった衣類を袋に詰めて集積所に運んだときのこと。
今は衣類は分別収集で月に一度しか出せないし、その日に雨でも降ったら(収集はしているようですが)次の月になってしまうので、早く処分しようと思えば集積所に持ち込むことになります。
私や子供たちが減量してだぶだぶになった服や、何年もしまったままの服や、くたびれて着るのもみっともないようなのを一掃しました。
出したあとで図書館に寄ってまたそこを通ったら、ホームレスとおぼしき男性が袋を開いて物色しているところでした。通りすがりの人がジロジロ見ても気にする様子もありません。
物色するのがいいことかどうかわからないけど、寒さしのぎの役に立つなら服も嬉しいでしょう。大きすぎる分厚い上着があったので、持っていったかもしれないなと思いました。
posted by dashi at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会問題

2006年12月06日

火事

心の痛むニュースを見ました。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061204i312.htm?from=main3
木造2階建ての住宅が全焼。51歳の母親と12歳の長男が遺体で発見されました。
夜中ではなく夕方4時過ぎの火事ですから普通は活動している時間帯。
元気な子なら逃げ出したんじゃないかと思いますが、養護学校に通っていたというから障害児だったのでしょう。その子の名前を何度も叫びながら家に飛び込んだ母親ともども、煙に巻かれて亡くなりました。
父親のほか外出していた小5の弟もいるそうで、亡くなった二人も生き残った二人も、気の毒で言葉もありません。

ウチの息子は重度の知的障害ですが、多少の判断力はあり、笛吹きケトルが鳴ると火を止めてくれます(うるさいからかもしれませんが……)。消せるぐらいだから教えたら着火も簡単に出来ると思うのですが、こればかりは怖くてさせられないでいます。
自閉症の親仲間から聞いた、彼女が以前住んでいた市で実際に起こった事件。
重度の自閉症だけど、ちょっとした調理は出来る青年がいたそうです。家族と一緒に食事の支度もしていたらしい。
この青年が、ある日家族が寝静まっている夜中に起き出して、火を使った。夜食にラーメンでも食べようとしたのでしょうか、睡眠障害で眠れないでいたのかもしれませんね。

その火が何かに燃え移った。普通なら家族に知らせますよね、でもこの青年はどうしたらいいかわからなかったのでしょう、「彼にとって安全な場所である」自分の部屋に戻って布団にもぐりこんでしまったのです。
寝ていた家族が目を覚まし、驚いて逃げようとしました。
家族は当然、その青年を起こして一緒に外に出ようとしたけど、どうしても寝床から出ようとしなかったそうです。家族が抱えて逃げるわけにもいかない、体格のいい青年だったようです。
家族は泣き叫びながら必死で引っぱるけど、どうしても動かない。「安全なはずの場所」から動きたくなかったのでしょうね、布団をかぶって動かなかったそうです。
とうとう家は焼け落ち、青年はそのまま亡くなりました。家族の心中はいかばかりかと思います。

重度の知的障害児を一人家に残して、何時間も平気で外出する知人がいます。その子も慣れたもので、おなかがすくと冷凍してあるおにぎりを電子レンジでチンして食べるそうです。
これを聞いたときはびっくりしました。言葉がなくて会話は出来ないし、人の指示がほとんど入らない子なのです。こと自分が食べることとなるとちゃんとやれるもののようですね。
今は火を使わなくても電子レンジでたいていの食事はフォロー出来るみたいだし(美味しいとは言いませんが……)、電磁調理器も普及して来たようです。知らない間にONになっているという危険性も改良されるようですし、これからは高齢者の一人暮らしでも火事は少なくなるかもしれませんね。
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2006年12月05日

てんかん

ウチの息子がはっきり自閉症と診断されたのは5歳の時でしたが、そのとき先生が何げない口ぶりで、
「脳波検査の予約をしましょう」
と言われたのは意外でした。田舎にいたころ療育手帳発行の前に脳波をとらされたこともあるけど、診断がついたのになぜ? 私がよほど怪訝な顔をしていたのか、
「自閉症にはてんかんの子が多いんですよ。脳波をとればそれがわかりますから」
というようなことをおっしゃったのに、大ショックを受けた私。てんかん? わが子がそんな恐ろしい病気に? と、とてもうろたえました。てんかんと聞くと、泡を吹いてひっくり返る恐ろしい病気という先入観があったからです。
だいたい、漢字で書くと「癲癇」、この字面からしておっかないですよね。

私の小学校の同級生にてんかんの子がいました。私は見た記憶がありませんが、通学中や教室の中で発作を起こしたことがあり、いきなりバッタリと倒れた話などは耳にしました。普段はニコニコと穏やかな子でした。
私がてんかんと聞いて連想するのは、どうしてもその子のことになります。
昔の片田舎ではちゃんと「薬でコントロール出来る病気」という認識があったのかどうか。その子は病気とともに周囲の偏見(タタリとか遺伝とか)に悩まされていたのではなかったかと思います。
その子は成人したあと、入浴中に発作を起こして溺死したそうです。もう少しあとの時代に、もう少し都会に生まれていれば、ちゃんと専門病院で診察を受けて投薬され、死ぬことはなかったかもしれません。

正直なところ、息子が自閉症と言われたときは「ああ、そうだったのか」と謎が解けたような、安堵する気持ちもありました。続けて「脳障害ですから一生治りません(『えっ、がーーん』と来ましたが、それはともかく……)。育て方のせいでこうなったのではないです」とフォロー(?)してもらったこともあり、自閉症というのは納得できました。
でも、てんかんなんて。一体どうしたら?
先生は数多くのお母さんに同じことを言い続けて来たのでしょう、とても不安がる私に、一本調子で
「健常な子の10倍ぐらいの確率ですかね。20%の発症率と言うけど5分の4の子は出ないわけだから、まあ割合としては多いかどうかわからないね」(ずいぶん昔のことになるので、数字などはうろ覚えです)
と突き放したような言い方でした。ここで妙に優しく言われたら泣いたかもしれないので、先生のそっけなさは却って有り難かったです。

頭の中は開いて調べるわけにはいきませんが、今は脳波をとることでかなりのことが判断出来るようです。
悪戦苦闘して録った脳波のグラフを音をたててめくり、ちょっとあやしいスパイク(尖った波)があると言われました。いつ発作を起こされてもしかたない、と覚悟を決め、中学校を卒業するまで年に一度脳波を録り続けました。
あやしい波はそのままですが、発作を起こさなきゃこのまま様子を見ましょうということで、脳波を録るのは中断しました。幸いまだ発作は経験ありません。
一度発作を起こすとその後ずっとてんかんの薬を服用することになり、その間は定期的に血液検査をしなければならないそうなので、発作を起こすと起こさないは天地ほどの差があります。
初めて発作を起こすのには児童期と思春期が大半と言われますが、25歳や33歳になって起こした例もあるそうで(知人の一人もそうです)、一生油断は出来ません。
私の知る範囲では「暑くて脱水状態だった」「寝不足で疲れていた」「妙にハイだった」ときに初めて発作を起こした、と聞いているので、水分摂取は制限しないし、あまりに眠そうなときは無理しないで学校に遅刻して連れて行ったりもします。

ウチの息子のように脳波に異常があってもなんともない(発作を起こさない)子もいれば、脳波は全くきれいなのにひどい発作を起こす子もいます。また投薬がドンピシャと決まって二度目の発作は起こさないで済んでいる子もいれば、合う薬が見つからなくて発作を繰り返し、困り果てているお母さんもいます。
発作と言っても泡を吹いて倒れるようなのは大発作と言い(脳へのダメージ大)、そうそうあるものではないらしい。急に固まったり、妙な動作を繰り返し、時間が来るとハッと止んだりするのもあるようです。様子がヘンなのでそばにいたらわかるという話です。
ウチの息子なんか一人で部屋にこもってることも多いし、見てない時に発作を起こしてもわからない、と専門家に訴えたら、
「見てないものは、ないんですよ」
と笑顔できっぱりと言ってもらいました。一生見たくない……。


※てんかんや脳波については、薬のことも含め、また日をあらためて書きたいと思います。